2015-06-10 第189回国会 衆議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第8号
それから曹操は補給路を断つ天才と言われていましたけれども、諸葛孔明に対して、泣いて馬謖を切るの故事にもなった戦いでは、水の補給路を断って、まさに孔明が天下統一をする唯一最大のチャンスを断ったのも、この補給路を断つ手法でありました。 日本で見ても、豊臣秀吉はその天才だと言われて、私の地元の岡山、備中高松城水攻めを初めとして、こういった補給路を断つということにたけた政治家でした。
それから曹操は補給路を断つ天才と言われていましたけれども、諸葛孔明に対して、泣いて馬謖を切るの故事にもなった戦いでは、水の補給路を断って、まさに孔明が天下統一をする唯一最大のチャンスを断ったのも、この補給路を断つ手法でありました。 日本で見ても、豊臣秀吉はその天才だと言われて、私の地元の岡山、備中高松城水攻めを初めとして、こういった補給路を断つということにたけた政治家でした。
一四六七年に応仁の乱があって、室町幕府の衰退によって細川氏と山名氏が戦って、そして動乱が始まり、戦国大名が出てきて、天下統一のために百年間以上戦い続けた、そういうイメージを持っている方がたくさんいらっしゃいますが、今、最近の新しい説においては、そのときが世界的に実は寒冷期、いわゆる小氷河期に突入していて、世界じゅうで戦国時代のような状況になっていた。
さまざまな定説がありますが、その戦国時代、いわゆる天下統一をするために戦国大名たちが争っていたという説もありますが、一方の説で、その時期はちょうど小氷河期、寒い時期であった、つまり、作物がとれないために、自分の国の領民を食べさせるために相手のところから分捕らなきゃいけない、そのための、食べるための戦いであった、そして、一五八〇年代になると、だんだん気候が暖かくなってきて作物がとれるようになったので、
天下統一の統、統治の統、「統る」。日本は古語で、治める、統治することを「統る」と言ってきたわけですけれども、古事記では、その「しる」というのを知識の知という漢字を当てているんですね。つまり、「知る」ことが統治すること、治めること。これは物すごい、古代日本人の直観といいますか、本質をついていることだと思うんです。
今委員がお引きになりましたように、先ほど説明すべきでしたかもしれませんが、現行の学校教育における宗教の取り扱いでございますけれども、小学校段階におきましては、今お話がありましたように、大仏の造営等の話もございますけれども、同時に、農耕が始まって、古墳について調べたり、大和朝廷について調べたり、そういう中から、神話、その伝承というものを調べる、あるいはキリスト教の伝来、織田、豊臣の天下統一について調べる
その項の中に「「天下統一すごろくしをつくってみよう」というところがあるんです。その中の「すごろくのコマ」というところに、まずすごろくの図がここに載っておりますけれども、天下を統一できるか、スタートというところからすごろくがスタートするわけです。いろいろありますけれども、秀吉は大阪域を築いて全国統一の根拠地とした、その絵があるところに二こま進むと書いてあるのです。
○坂元政府委員 先生御指摘の本件の教科書の記述は、戦国時代における天下統一の過程について理解を深めるために学習のまとめとしてすごろくを作成することをねらいとしたものでございます。
徳川家康は、私の郷党の大先輩でありますが、「厭離穢土欣求浄土」という旗印を掲げまして天下統一を戦ったわけであります。フランスが革命の際、自由、平等、博愛というスローガンと申しましょうか、掲げましたし、それからアメリカの場合は民主主義と人権でございましょうか、非常に世界の人々からわかりやすい旗印を持って、そのとおり行動しておられるわけであります。
例えば、十六世紀の南蛮文化というものを考えてみましても、鉄砲伝来によってそれは象徴されるわけでございますが、鉄砲という新技術によって、余り軍事のことについて論じたくはございませんけれども、過去のことでございますから申し上げますと、鉄砲という新兵器によって織田信長の鉄砲隊が武田の騎馬軍団を打ち破って、そして天下統一を遂げました。
御案内のように壬申の乱、あるいはまた関ヶ原の合戦、織田信長の天下統一の根拠地でもあったわけですね。そういうような意味で、ここで行われる未来博は将来の日本の未来をつくるものではなかろうか、私はこういうふうにも考えておるわけです。
これはすべて率直に申し上げて、いまから三百五、六十年前、一六〇〇年の関ヶ原の戦いがあった後、天下統一のために日本全国のいわゆる幹線道路網というのを徳川時代につくっております。それ以来つくっていないのです。その当時の人口が、正確であったかどうか私は承知をいたしておりませんが、三千万。現在御承知のとおり、私どもの想定では昭和四十五年、一九七〇年では一億をこす、これは確実にこすと思います。
といいますのは、よく調べてみますと、現在のいわゆる幹線的な道路、一級国道、あるいは二級国道、あるいは一般道にしても、幹線的な道路網というものは一体いつの時代にできたのか、これを考えてみますと、その後に、ある程度はできておりますけれども、明治維新までに、言いかえると、戦国時代から徳川時代まで日本統一の際に、天下統一といいましょうか、その際にそういう構想で道路網ができておるように思います。