1949-09-22 第5回国会 参議院 文部委員会 閉会後第8号
それで第一回の協議会を二十三年の二月に開きまして、二十三年の二月十九日に商工大臣官邸の会議室で以て開きまして、学識経驗者と安定本部、それから文部省、文部省は小林さん、平山さん、武田さん、中井さん、本田さん、鏑木さん、それから厚生省から石神さん、田村さんが、農林省建設部、福島縣、新潟縣、群馬縣、あとは商工省関係でございますが、商工省の本省並びに関東全体の商工省の関係官、それから日本発送電、これだけが約六十名
それで第一回の協議会を二十三年の二月に開きまして、二十三年の二月十九日に商工大臣官邸の会議室で以て開きまして、学識経驗者と安定本部、それから文部省、文部省は小林さん、平山さん、武田さん、中井さん、本田さん、鏑木さん、それから厚生省から石神さん、田村さんが、農林省建設部、福島縣、新潟縣、群馬縣、あとは商工省関係でございますが、商工省の本省並びに関東全体の商工省の関係官、それから日本発送電、これだけが約六十名
この問題が起りまして最初に文部省が出席をいたしました会議は、昭和二十三年の二月十九日に商工大臣官邸におきまして、尾瀬、只見、利根川綜合開発協議会というのがございまして、文部省から前任の小林文化課長及び嘱託の理学博士武田久吉氏、國立科学博物館長の中井猛之進氏、東大教授の鏑木外岐雄氏、東大教授の本田正次氏、これだけが出席をいたしまして、協議に参加いたしたのであります。
ところが何かのことで九州へお見えにならなかつたので、私東京へ帰りまして、一月の初めだつたと思いますが、商工省へ参りまして、商工大臣に会うつもりでおりましたところが、いなかつたので、商工次官に会いまして、業者がこの法案に協力をする体制を一日も早く確立しなければならぬじやないかと強力に進言しまして、私業者を連れて商工大臣官邸に行き、商工大臣に会いまして、今までのことを一切水に流して、この法案が実施されたならば
ちようどそれは五、六月のころと思いますが、その時分にたまたま國管案の問題が國会に上程される運命にあるのだということを耳に挾みまして、その後石炭廳、すなわち商工省案と申しまする草案が手にはいりまして、これでは現段階においては國家の要請に副うような増産はできないのだということで、当時私は副会長ではなかつたのでありますが、そういう意図をもちまして、数人の人が品川の商工大臣官邸におきまして、当時の安本長官和田
いたもので、この意思表示をしたのがありますので、ごらん下さいますとわかりますが、それはそのときどきの模様によつて、たとえば一番初め一應眞向から反対しようということではなしに、一体石炭國管法の内容はどういうものか、あるいは政府はどういう考えで、あれをやろうと思つておられるかということが疑問だから、初めから國管はいけないのだという態度をとつたのではなしに、あるいはこれも六、七月ごろだつたと思いますが、商工大臣官邸
○山川證人 それは先ほど申し上げましたように、政府が國管案というものを、——政府というよりも事務当局と申し上げた方が正確と思いますが、取上げられた時分にそのことを聽きまして、私の方で大体の内容を檢討しまして、それを政府がどういうふうに扱われるかという、政府としての方針を承りたいというので、六月の終りか、七月の初めか忘れましたが、この時分に商工大臣官邸で関係の大臣、事務当局等にお目にかかつたのが、運動
今の商工大臣官邸なんかに一緒に來てもらいまして、三党首の方にはそれ以外お目にかからなかつたと思います。
しこうしてこの企業形態の問題につきましても、先般西田委員と繰返し質疑應答があつたのでありますが、これに關連して思い出しますことは、去る六月十日前後、これは私傳え聞いたのでありますが、商工大臣官邸において、業者の代表の方々と商工大臣とお會になつていろいろお話合になつたその中に、企業形態の變革ではないか、いやそうではないという論議が、一くさりあつたということを聞いておるのであります。
八月十六日の商工大臣官邸の最後の打合會のときに、私がこの問題についてあなたに質問したのです。ところがそのときのあなたの答辯は、議を經ることと、定めることは別である。議を經ないでも定めてよろしいのだ。こういうふうな御答辯を私になすつた。