2014-11-05 第187回国会 衆議院 外務委員会 第5号
中国側は最終的に、周恩来首相が、民間先行、民をもって官を促すという対日方針のもと、李徳全女史を初めとする訪日団を送り出しておられます。周恩来首相は、また、代表団が日本に着くことができれば、それはすなわち成功であると言われたと伝わっております。まさに、戦後、日本国が、サンフランシスコ講和条約後初めて、人民中国から使者を迎えた最初の一日でございました。
中国側は最終的に、周恩来首相が、民間先行、民をもって官を促すという対日方針のもと、李徳全女史を初めとする訪日団を送り出しておられます。周恩来首相は、また、代表団が日本に着くことができれば、それはすなわち成功であると言われたと伝わっております。まさに、戦後、日本国が、サンフランシスコ講和条約後初めて、人民中国から使者を迎えた最初の一日でございました。
やっと自分の重荷が下りたという思いをして会談に臨んで、周恩来首相と話をして、最初に日本から共同声明の案を高島条約局長が出したときに、周恩来首相が烈火のごとく怒って高島条約局長に食って掛かって、厳しくお叱りをいただいた。そのことは、その協定の中に親交の厚かった台湾のことが非常に穏やかに書いてあったので、周恩来首相は、そのことを大変高島条約局長にお叱りになったと。
これは、日中国交正常化交渉時、当時の周恩来首相が挨拶の中で使われた言葉でもあります。読んで字のごとく、前のことを忘れず、後の戒めとするという意味ですが、私は、二度と危うい歴史を歩んではならない、そのためにも、歴史を直視し、戦禍の記憶を記録に残し、次代を担う世代に議論を通じてしっかりと伝えていく必要があるという思いが込められた言葉だと思います。
これは、中国の首脳、偉い人がみんな読む本だそうですけれども、この本に、一九一八年、これはもう日露戦争が終わった後ですけれども、共産党建国の母と言われて中国で大変尊敬されております周恩来首相が、靖国神社の春の大祭に行かれて大変感激したというふうな日記が実は載っているんですよね。
その際に、一九七二年七月二十八日に行われました公明党訪中団と周恩来首相との会談の内容を紹介させていただいて、先人の知恵に学ぶべきだという御指摘をさせていただきました。
当時の周恩来首相と何度かの会談をしましたが、その中で、周総理がこういう発言をされています。これは、今から私が紹介するのは、情報公開法に基づきまして読売新聞社が外務省に開示を求めて公開された文書ということで、インターネットで見ることができます。 周総理は、台湾の問題をずっと聞かれた後にこのように言われています。 そうです。尖閣列島の問題にも触れる必要はありません。
もちろん、厚生大臣、閣僚になられると我々、直接の関係はできなくなるわけですけれども、非常に彼の人脈を通じて今も我々の活動を彼はよく知っていただいているというふうに思いますし、こちらで四人で手を握っております一人は南開大学の学長にその後なりまして、南開大学というのは天津市にありまして周恩来首相の出られたところですので、今後、いろんな意味で、我々のネットワークを使っていただいて中国での活動を広げていくことができるのではないかと
一九七二年、日中国交正常化に際して周恩来首相は、日本の中国侵略は一部の軍国主義者によるもので、一般の日本人も戦争の被害者だったと説明し、この考えを前提に日中の国交正常化が実現をいたしました。 総理、総理もこの見解に立たれますね。
その際に、周恩来首相が述べておられますように、中国側はそういう見解を述べられた。しかし、日本がその見解を承知をしたというか、日本側も同意をして作ったというものではないわけでありまして、成果であるこの日中共同声明あるいは日中平和友好条約、あるいはまたその後の共同宣言に書いてあることがすべてであると思います。
かつての日中共同声明、あのときの状況、あの流れ、そういうものをすべて把握して見ていったときに、そのとき国家の代表として周恩来首相とそれから田中総理が握手をされました。非常にかたい、テレビを通じても肌身に迫ってくる、いろいろな思いのこもった握手であったと私は思っております。 元来中国の方々とも私は長いおつき合いをさせていただきました。
かつて米中接近の際、中国の周恩来首相は、ニクソン、キッシンジャーを相手に、単なる友情の上に永続的な安定した協力関係は築けない、国益の一致、利害の一致があってこそ安定的な米中友好関係が築けるという議論をしております。で、ソ連の覇権阻止がその場合の共通の国益でございます。
故田中角栄総理が日中国交再開を求めて中国を訪ねましたときにお会いされた周恩来首相の日本に対するあの処遇の仕方は、正に中国が生んだ高徳の賢人、いわゆる中国でいう大人であったなと今も感じております。この中国の大きさ、寛大なることへの敬意を、先日、機会がございまして、王毅駐日大使にもそう申し上げてしまうほどの、私、忘れ難い周恩来首相のあの面影を思い出しております。 今年は終戦六十年の年です。
私は、やっぱり日中関係というのは、国交回復前夜に周恩来首相がいみじくも田中当時の総理を歓迎してお話があった内容にもありますように、この二千年に及ぶ日中間の悠久な交流の歴史というものをやっぱりきちっととらえながら行われていくべきだろうというふうに思います。漢倭奴国王という金印を授けられた時代もありましたろうし、唐に隋にこちらから使節団を派遣したこともあった。琉球もその傘下にあった時期もあります。
一九七二年、田中角栄首相、大平正芳外相が北京を訪れ、不十分ながら、日本が国家として過去の侵略を謝罪し、それに対して周恩来首相が、一部の日本の軍国主義者が侵略戦争と多くの戦争犯罪を引き起こし、中国の人民も日本の人民も、ともにその被害者であること、犠牲者であることを指摘なさり、それに基づいて、日中両国の政府、日中両国の市民の間で、被害者同士が手を携えて東アジアの友好と協力を進めることが確認されたのであります
ただ、周恩来首相が七二年に言った、そして日本政府もそれを認めた、日本の軍国主義者による侵略戦争と戦争犯罪は反省する。ただ、日中両国というか、アジアの人民はすべてそういった意味では被害者なのであって、お互いに被害者として、これからは東アジアにおける友好をつくっていこうじゃないかというその精神というのはなるべく明らかにした方がいいかな、既に日本国政府も認めていることでありますから。
この交渉に当たった周恩来首相は、小異を残して大同に付くことを強調しました。以来、日中関係は大きく発展し、両国の友好関係は揺るぎないものとなっています。私どもの小異を残して大同に付く、すなわち両党の合併も日本一新を進めるための歴史的な転換点になると確信しております。 小泉政権はもはや風前のともしびです。やることなすことすべてが空っぽ、こんな政治がいつまでも存続するはずがありません。
三十年前に、田中角栄さんと大平外務大臣、国交樹立の話し合いをしますときに、周恩来首相との間で、侵略戦争をやったやらないで大問題になったわけでありました。周恩来首相は、日本は侵略戦争をやったと言う、田中角栄さんは、日本には侵略の意図は毛頭なかったと言って、大変なけんかになったわけでありましたけれども、だんだん、日本みずからが、侵略戦争をやったようなことを言い出す。
しかし、一九七二年に田中角栄首相に周恩来首相が言われたのは、日米同盟は大事ですから堅持してくださいということでした。これは、日米安保は台湾海峡を含む、極東は台湾海峡を含むんだという前提をそのまま容認しながら、日米同盟は必要なんだと明言された。その戦略的目的は対ソ連戦略でしたね。国境紛争も含めた中ソ対立のときに、日米安保が中国の後ろ盾になるという発想でした。
当時の中国側の首脳といたしましても、毛沢東主席や周恩来首相、また姫鵬飛外相や蓼承志中日友好協会会長ら首脳といろいろと外交交渉をしたわけでありますけれども、私の生涯にとってみればこれは大きな財産になったと思っておるわけであります。 しかし、今日、好感度というのであえて日中関係を見てみますると、五〇%以上の方が余りいい感じを持っておらないというような数字が出ておるわけであります。
例えば、ことしは日中国交回復二十五周年ということで、秋にいろいろ行事が行われるとは思いますけれども、そんな中で、あの田中総理、周恩来首相という話し合いの中で行われたことを日本側で当時現場にいて御存じの方は今や一人もおられなくなったんじゃないでしょうか。
言うまでもなく、これは一九七二年に周恩来首相が田中角栄総理に披露した言葉であります。くしくも来年はその年から二十五年目に当たります。そのような記念すべき年を目前にして、改めて日中両国民がこの言葉の重みをかみしめ、未来に向けて新たな出発を始めなければならないと強く思うのであります。
最も欣快とするのは、日本側の国益を何ら反映することのなかったあの日中航空協定に最後まで反対した我々青嵐会を当時の周恩来首相が評して、彼らの言うことが当たり前だ、私が日本の政治家だったら彼らと同じことを言っただろうと周辺に語ったということを、後に複数の方々から聞かされたことでありました。 しかしなお、今日この表彰を受けて改めて私は、みずからの力の足りなさに慙愧せざるを得ません。