2021-03-22 第204回国会 衆議院 総務委員会 第11号
今御指摘がありました織物事業者についての御質問でございますけれども、こうした方々につきましても、緊急事態宣言に伴う外出自粛の影響を受けた、例えば呉服屋さんとかレンタル着物屋さんなどへの納入が減少して売上げが大幅に減少したという方であれば、対象となり得ます。 他方、こうした給付条件に合致する場合でありましても、事業者御自身が認識されていないこともあるというふうに思われます。
今御指摘がありました織物事業者についての御質問でございますけれども、こうした方々につきましても、緊急事態宣言に伴う外出自粛の影響を受けた、例えば呉服屋さんとかレンタル着物屋さんなどへの納入が減少して売上げが大幅に減少したという方であれば、対象となり得ます。 他方、こうした給付条件に合致する場合でありましても、事業者御自身が認識されていないこともあるというふうに思われます。
着物の魅力自体は、まあぶっちゃけた話ししますと、私も呉服屋が継ぎたいわけじゃなかったんですけれども、本当に、父が病気で倒れちゃって、もう家がどうするこうするともめて、嫌々始めた仕事です。ですから、当初、済みません、古賀議員が笑っていらっしゃるのは事情を御存じだからだと思いますけれども、そういったことも含めて、実は最初から魅力というものがあったとは思いませんでした。要するに分からなかったわけです。
呉服屋のさが美という会社がございまして、九月に、あるファンドがこの会社に対して株式公開買い付けをいたしました。五十六円という株価で公開買い付けをした。その一方で、別のファンドが、五十六円に対して、何回か価格を変えながら九十円という形で具体的な提案をいたしました。 一方で、本来であればそのさが美という会社は善管注意義務を負っていて、きちんとその提案について向き合わなければならない。
私自身、開業医なんですけれども、医療法人の理事長をやっているんですけれども、うちの妻の実家が心斎橋の方で呉服屋をやっていまして、呉服業界もかなり下火になりまして、いわゆる小規模企業というところでして、残念ながら赤字企業でございます。
再三申し上げていますけれども、私自身は医療法人もやっていますけれども、実家は呉服屋で、呉服の方はやはり厳しいというのが現状でございまして、では、経営改善で再スタートということも考えるわけですね。
パッチワークというお話なんですけれども、確かに、老舗の呉服屋さんから見ると、日本語にしますと継ぎはぎですから、何か余りよくないように聞こえるのかもしれないんですけれども、もともとの意味はそんなに悪くないんですね。
残念ながら、うちの呉服屋も縮小しております。皆さん高齢者だったので、定年とともに店舗を閉めて縮小していったんですけれども、定年後の皆さんの生活もあるわけですから、そこからの出口を企業としては考えたわけです。 つまりは、産業の面で明るい部分もあるんですけれども、それに伴う労働者の移動という負の面もあると予測されるんですが、今回の政府主導の方向性、あり方を再度お聞きしたいと思います。
私自身は医療をやっておりましたけれども、実は、うちの家は代々呉服屋をやっていまして、大阪の商店街で呉服を売っていました。産業化しているんですけれども、バブル期には八店舗ぐらいございまして、当時、いわゆる洋服、アパレルもブームだったので三店舗ふやしていきましたが、はやり廃りというところで、アパレルの方はテナントだったんですけれども潰れてしまって、呉服の方も、八店舗あったのが今は一店舗です。
京都の呉服屋さんが消費税の影響がどれだけあったかということで御紹介をいただいた例がございます。九七年増税ということでしたが、悉皆屋さんを営業されています方の売上げで見ますと、九六年の売上げ、ところがこれ、九七年には八割に九六年と比べてなりました。九八年には四割に落ち込みました。本当に、この消費税の増税という影響が、進む着物離れに加えて、一層それに拍車を掛けると。
もう呉服屋さんは厳しいからやめる。
そこで、私たちはとても立派な呉服屋さんの空き店舗を借りて、高齢者のつながりづくりというのを、さっき御紹介した横浜のふらっとステーション、つまり全く立地も違えば居住者も違えばというものをあえてそこに持っていったときにどういうことが起きるのかということで、実験的取組として米沢市の商工会議所の御支援を受けながらその取組をやってみて、それを青森市もお取りになりました全国都市再生モデル調査の中で試してみました
○辻兵吉君 今仕立て屋さんの話がちょっと出ましたけれども、確かに呉服屋は今、昭和四十年代と比較すると半分以下になっている。
決してうちは、申し訳ないんですが、呉服屋の息子ですから、決して家庭が裕福じゃなかったわけじゃありません。お金をちょうだいと言えばもらえた状況だったんです。だけれども、そこに僕がおやじに対する反発心が目覚めたんです。ああ、自分の人生は自分で考えようと。自分で生きてみようと。で、中学一年のときから新聞配達をするわけですね。
明治時代に、明治時代に、僕、うち、呉服屋なんですけれども、明治時代にフランス船に反物を積んでインドまで売りに行ったという男なんですよ。売りに行ったという男なんです。インド人が買ったのかなと思いながら子供心に聞いていたんですけれども。いや、これはあくまで差別ではありませんので。いや、反物の価値観というの分かるのかなと思ったら、日本人村というのがあったみたいですね。
ところが、どうして京都がそうなったかということは、基本的に国政に係る問題がございまして、京都の町家さんの呉服屋なら呉服屋のお父さんが死にます、すると相続税がかかります。相続税がかかると、これは正田邸のように、建物を壊した更地の方が高い値段で売れるわけですね。相続税はかなり高いですから、現状の古い建物を維持していた形では相続税を払えないという例が多いようでございます。
先日、私、日本橋の、創業四百年、三河から徳川さんと一緒に来たというつくだ煮屋さんとか、呉服屋さんとか、そういうだんな衆にも会いました。バブルのときに大変、七億でビルを建てたい、いや、十五億にしてくださいということで、過剰融資ですね。
これはだから抵当権者がどういうふうに判断するかということだと思いますけれども、しかし、そうでない判断で、このビルはウナギ屋だとか呉服屋だとか、そういうものは邪魔だ、全部一括大型店舗の方が割がいいじゃないかといった場合には、やはりこれは三カ月で出ていかなければいけないということになるのか。そしてまた、その場合は、かなりの保証金を積んでいるはずですよね。
○広野ただし君 今やはり、特に地方は非常に厳しい状況にあって、呉服屋さんですとか伝統的な菓子屋さんですとか旅館ですとか、言わばそういうところがつぶれてまいりますと、地方の言わば文化が廃れてしまう、こういうことになるんですね。ですから、皆さん歯を食いしばって頑張っていますが、いかんせん、なかなか大変だと、こういう状況であります。
子供が小学校の入学を迎えるようになりますとランドセルだとか机だとか学用品の広告が入っていたり、あるいは娘が成人式を迎えるころになりますと呉服屋さんからそのような御案内があるとか、また、私などうっかり家族の誕生日、家内の誕生日を忘れていますと、何かそのようなプレゼントの御案内があったりして助かることもあるんですけれども、そういうことがありますと、どうしてしかしこんな情報を知られているんだろうか、一体どこまで
皆さん恐らく体験があると思いますけれども、頼んでもいないのに、子供が入学の時期になるとランドセルだ、机だの、ダイレクトメールが届く、成人式を迎えるときになれば晴れ着の広告、呉服屋さんから晴れ着の広告が来て、写真屋さんから写真の広告が来てという形で、何でこんなようなの来たのかなというような個人情報の利用のされ方もしている、そういう時代になってきたわけでございます。
いや、意外と生まれはいい、僕は呉服屋の息子なんですけれども、いいんですけどねと言ったら、へえ、おまえはそういうふうに見えないなとか言われて、ああそうですか、どうも済みませんでしたと、何でおれが謝らなきゃいけないのかなと思ったんですけれども。
そこには、江戸時代から続いた呉服屋があったりとか、あるいは履物屋があったり、先祖代々ここで商売をしてきたという人たちがいたり、あるいはバブル崩壊後のこの苦しい時代を何とか耐え抜いて、今回四階建て、五階建てぐらいのビルを建てて生涯の勝負をかけたい、こういういろいろな一つの暮らしがあるわけですよ。
(拍手) 伊藤先生は、大正十三年、宮城県加美郡中新田町で呉服屋を営まれていた父宗太郎氏と母ときさんの長男としてお生まれになりました。 先生は、旧制古川中学校、第二高等学校、東北大学で学び、政治家を志し、読売新聞社に入社されました。 先生が高等学校に入学された昭和十六年は太平洋戦争が勃発し、戦争が日一日と激しさを増す中、東北大学法学部に進まれたのであります。