2011-02-09 第177回国会 参議院 国民生活・経済・社会保障に関する調査会 第2号
産業革命後の英国においては、職域組織であるトレードユニオンと呼ばれる労働組合と、フレンドリーソサエティーと呼ばれる相互扶助、共済組織である友愛会が自然発生的に誕生いたしました。労働組合や友愛会は、経営者側が企業福祉に関与することを拒み、あくまで労働者の自主的な組織として運営されていたようであります。
産業革命後の英国においては、職域組織であるトレードユニオンと呼ばれる労働組合と、フレンドリーソサエティーと呼ばれる相互扶助、共済組織である友愛会が自然発生的に誕生いたしました。労働組合や友愛会は、経営者側が企業福祉に関与することを拒み、あくまで労働者の自主的な組織として運営されていたようであります。
そこから友愛運動が始まり、鳩山家の友愛につながっていくのかもしれませんが、その前に、大正元年に日本で初めて労働組合ができたときの名前、その労働組合の名前は友愛会といったのですね。 同じ言葉でも、使う人によってはちょっと意味合いが違ったりいたします。
あるいは一九一九年第一回ILO総会以来、いわゆる官選労働代表と呼ばれております政府が一方的に決めた労働代表が総会に出席をしておりましたが、一九二四年からはILO憲章に規定されておりますとおり代表的な労働団体、当時は日本労働総同盟、友愛会でございましたが、そこと相談をして労働代表を選ぶというようなことになったのもまさにそのあらわれだと思います。
○川波洋行君 ただいま御紹介をいただきました福岡県友愛会並びに九州電力労働組合福岡支部の川波でございます。 私は、税金のことについては全くの素人でございますので、突っ込んだ意見の提起ということはなかなかできません。しかし、労働組合の役員という立場で、働く者のみんなの立場を代弁しながら幾つかの意見を申し上げたいというふうに思います。
意見陳述者は、株式会社ミスターマックス代表取締役社長平野比左志君、公認会計士甲能市郎君、田川市長滝井義高君、九州電力労働組合福岡支部執行委員長・福岡県友愛会会長代行川波洋行君の四名でありました。
株式会社ミスターマックス代表取締役社長平野比左志君、公認会計士甲能市郎君、田川市長滝井義高君、九州電力労働組合福岡支部執行委員長・福岡県友愛会会長代行川波洋行君、以上の方々であります。 それでは、平野比左志君から意見陳述をお願いいたします。
一時、わが国初の労働組合組織である友愛会の婦人部に勤務の後、大正八年、新婦人協会の設立に参加され、婦人参政権運動を初めとする苦難じ、かつ輝かしい以後六十年余にわたる活動のスタートを切られました。 大正十年、婦人参政権獲得直後のアメリカに渡り、苦学しながら米国各地の婦人運動に直接触れられました。このことは、婦人参政権獲得運動にひけるその後の市川さんの人生に大きく影響を与えました。
私もかつて昔の戦時中の法律、大分苦い経験を教わったんですがね、私らの先輩も含めて明治、大正の機関士友愛会の先輩なども含めて、われわれの先輩が治安維持法を、機関車の運転士が何で治安維持法を適用されるんだということまで先輩からこれは聞かされたものです。そういう可能性を十分私はいまの討論を聞いておって持っております、持ちました、率直に言って。
そこで文部省にお伺いしますけれども、実は社団法人日本禁煙友愛会というのがございまして、ここで今回、義務教育課程でたばこの有害を取り上げてもらいたいという十万人の請願書を衆参両院に出すわけなんです。きょう提出するわけでございますが、そんな関係もあり、実は、この団体が昨年、衆参両院議員にたばこに対するアンケートをとったわけです。
○佐野(進)小委員 それでは、宮崎県の財団法人友愛会は、これはあなたの言われた答弁書の後でも出ておるようでございますけれども、前払い式特定取引業と解したものというぐあいに判断をしてよろしいわけですか。
財団法人友愛会という団体がございます。これは主として生計困難者等の冠婚葬祭について民生委員の証明のある者について市の負担において施行を行っているようでございます。これは明らかに営利を目的とする事業ではないというふうに判断されまして、公益法人の認可を得ていると聞いております。これは地方の団体でございますので、県の方が認可をしたはずでございます。
カトリック系の友愛会というのがあるんですが、この友愛会で障害児の保育をしておりますけれども、お母さん方がその友愛会に行って、そして保母さんのかわりをやっているという、それはやはり集団教育の必要というものを母親としては痛切に感じている結果であろうというように考えますから、友愛会の実態等も十分御調査になって、適切な措置を講ぜられる必要があるということを申し上げておきたいと思います。
そのころ、神戸において、賀川豊彦氏が友愛会を指導しておられました。佐野君はたまたま彼の著書「死線を越えて」を読んで賀川氏の思想と人柄に引かれて、友愛会のメンバーとなり、賀川氏の指導を受けたのであります。この賀川氏との出会いは、佐野君の生涯を貫く生活態度に、精神的な強靱さを与え、正義と人類愛に生きる人間味がつちかわれる契機となったのであります。
御承知のごとくわが国において労働運動というものが連合体の形をとって登場いたしましたのは、大正の初めにおける友愛会、その時代はいわゆる幸徳秋水事件のあった直後でありまして、社会とか労働とかいうようなことばさえも使えなかったような時代、しかも選挙は制限選挙、さらに労働者保護の立法といえばわずかに工場法があるだけという時代、そういう時代に、労働運動というものは、やはり議会を通して法律制度を改正するということよりは
鈴木君は、単に一学究に甘んずるをいさぎよしとせず、いち早く社会運動に注目し、自己の研究に精進しつつも、友愛会労働学校の講師として労働者の教育に従事し、また、革新陣営の人々の応援に奔走するなど、若い日の君の活動は実に目ざましいものがありました。
大矢先生は、みずからの職場を通じて、労働階級の実情に深く考えられるところがあり、大正元年、鈴木文治氏を中心にしてかの友愛会が創立されまするや、進んでこれに参加し、先生の畢生の事業となった労働階級の向上と労働組合の育成のために、苦難の第一歩を踏み出されたのであります。
大正七年京都大学法学部に入学されるや、河上肇先生の薫陶を受けて社会主義経済学をおさめるとともに、友愛会に入り、社会運動の第一歩をしるされたのであります。大正十年大学卒業後も大学院で研究を続け、また、労学会を組織して、社会主義理論の探求と実践とに若い情熱を傾けられたのであります。大正十二年弁護士を開業し、同時に、立命館大学講師等となり、さらに研さんを積まれました。
一九一九年、日本労働組合総同盟友愛会が、友愛会という労資協調的な名称を振り捨てて日本労働総同盟となり、最低賃金制を要求して以来ここに四十年、ILO最低賃金制の条約をめぐって、政府、使用者代表反対の中に、労働者代表、故米窪滿亮氏が、わが国の低賃金の実情を訴え、最低賃金制採用の急務を強調し、賛成投票をして以来ここに三十年、まさに、政府の似て非なる最低賃金法案が本院を通過するか、全労働者の統一したわが党修正案
時あたかも明治より大正への転換期でありまして、労働組合運動の機運がようやく胎動し始め、大正元年に故鈴木文治君がその口火を切って友愛会を創立しました。松岡君は、大正三年に迎えられて友愛会に加入し、労働者出身の指導者として世間の注目を引いたのであります。そのころは、まだ幸徳秋水のいわゆる大逆事件の影響が残っておって、労働組合の結成には、今日では想像もできないような迫害と弾圧を伴ったのであります。
労働組合の発達というものを、日本は、かりに大正元年鈴木文治さんが友愛会をつくつてからとしましても、四十五年になりますが、イギリスが三百年というものを持つておるに比べますれば、非常に短かいし、かつまた、戦後日本がアメリカさんの指導のもとに、非常に強力な労働組合保護の規定をつくつて、そうしてアメリカさんの進駐軍が率先して労働組合を指導、奨励、扇動してまわつたときからしますと、九年でございます。