1972-05-24 第68回国会 衆議院 外務委員会 第18号
一九五〇年八月、極東アメリカ海軍部隊司令官C・ターナー・ジョイ中将の参謀副官アーレイ・バーク少将は、アメリカ海軍が相当の障害を排除し得る掃海部隊を持っていないこと、特に北朝鮮海域に進入すれば複雑なソビエト製感応機雷に遭遇する可能性についてよく知っていた。この感応機雷を処理できる高い練度を持つ大きな掃海部隊がたった一つあった。
一九五〇年八月、極東アメリカ海軍部隊司令官C・ターナー・ジョイ中将の参謀副官アーレイ・バーク少将は、アメリカ海軍が相当の障害を排除し得る掃海部隊を持っていないこと、特に北朝鮮海域に進入すれば複雑なソビエト製感応機雷に遭遇する可能性についてよく知っていた。この感応機雷を処理できる高い練度を持つ大きな掃海部隊がたった一つあった。
そのもう一つの材料といたしましては、実は一九四五年の十月十一日の司令部の覚書で「一九四五年十月五日作戰参謀副官に提示せられた日本警察力の員数及び武装を強化すべき旨の日本政府の提案に対しては、好意ある考慮を拂うことはできない。」と言つて、警察官増員の拒否の意向が、一九四五年の十月にもありました。また一九四九年の降伏四周年のマ元帥の声明の中にも、現警察制度で秩序維持は十分だと考える。
その顔触れは機動旅団の幹部、参謀副官の特殊な者、それから憲兵特務機関、地方文官は亡くなられました阿部検事正以下野中検事等、検事、判事の主なる者、こういう連中を合せて三百名余りが残りました。それは病院に入れられまして、病院で隔離を受けておりましたが、帰る時に一番最後の千数百名と一緒に汽車にはカザンで乘りました。