2021-02-24 第204回国会 衆議院 予算委員会公聴会 第1号
感染研のルーツは、北里柴三郎博士がドイツから帰国した際、福沢諭吉翁の支援で創立された伝染病研究所です。伝研と略します。当初、私立衛生会附属でしたが、内務省、文部省、東京大学と移管され、第二次世界大戦前は日本最大の感染症研究所でした。最盛期には、感染症の基礎や治療法の研究を行うとともに、治療血清やワクチンの製造、検定、認可、販売まで事業範囲は広がったようです。
感染研のルーツは、北里柴三郎博士がドイツから帰国した際、福沢諭吉翁の支援で創立された伝染病研究所です。伝研と略します。当初、私立衛生会附属でしたが、内務省、文部省、東京大学と移管され、第二次世界大戦前は日本最大の感染症研究所でした。最盛期には、感染症の基礎や治療法の研究を行うとともに、治療血清やワクチンの製造、検定、認可、販売まで事業範囲は広がったようです。
一点申し上げたいのは、日本は、今日、北里柴三郎博士のことを申し上げましたけれども、最初に微生物学というのが日本に入ってきたために、その前に実は衛生学ということで、病原体は分からないけれども、例えばコレラであって、それを上下水道をきちんとしていくとコレラが防御できるというのは、イギリスでも行われましたし、ドイツなんかでも行われたわけです。
今回の新しい日本銀行券の肖像につきましても、その考え方を踏まえまして、先ほど大臣から御答弁もございましたように、新一万円券は日本の経済近代化の最大の功労者と言われる渋沢栄一、新五千円券は近代的な女子高等教育に尽力をされた津田梅子女史、新千円券は日本医学の発展に貢献した北里柴三郎博士としているところでございます。
三ページ目、こうした医療分野の開発研究のパイオニアは北里柴三郎博士でありまして、明治二十三年にジフテリアの抗血清療法をベーリングと一緒に開発しています。基礎研究から臨床への応用が成功した極めて有名な例であります。 この当時は、四ページ目見ていただきますと、研究所で製造から販売までしておりました。
一人は北里柴三郎博士で、コッホの下に血清学を学び、そしてペストについても、明治の二十七年、香港で大発生したときは、自ら、自分が六人と一緒、まあ助手も連れていき、三人がかかって一人が死ぬ、そういう中で対策を立ててくれた人だと思いますし、もう一人はそれを後押しした後藤新平だというふうに思います。何といっても、ペストとコレラを減らすためにはやはり公衆衛生が非常に必要です。
小国町は、近代医学の父と言われております北里柴三郎博士の出身地で、博士は、自分の体験から、学習と交流ということを強く小国町に博士の遺志として残しております。それを活用しました学びやの里づくり、そういう中での町民の方の研修、町外の方々の研修、交流というものに努めていっております。そこがいわゆるツーリズムの中心的な場所であり、またソフトの事業の展開の場所になっていっております。
この屋内人エスキー場を中心としたリゾート開発であるとか、あるいは人づくりの面におきまして、たくさんのリーダーの方たちが生まれてきておりますので、さらにそういうリーダーに活動の場、あるいは勉強の場を与えるための諸施策であるとか、また、小国町、北里柴三郎博士、近代医学の父、あるいは世界を代表する細菌学者でございますけれども、やはり博士の遺志を継いで学習の場あるいは健康づくりの場として学びやの里という構想