2014-04-25 第186回国会 衆議院 内閣委員会 第16号
こうなってくると、私もさっきビジネスモデルというふうに言いましたけれども、例えば、今回、GP出資というのがありますけれども、ただ、ああいうものというのは、ある程度お金を出した側が事業そのものにもかかわっていくというような、銀行もさすがに、いろいろなことを築いている先覚者たちは、例えば農業だとか医療であるとか環境とか、そういう極めて専門知識が要るような分野にどんどん自分たちが入り込んで、一緒になって、
こうなってくると、私もさっきビジネスモデルというふうに言いましたけれども、例えば、今回、GP出資というのがありますけれども、ただ、ああいうものというのは、ある程度お金を出した側が事業そのものにもかかわっていくというような、銀行もさすがに、いろいろなことを築いている先覚者たちは、例えば農業だとか医療であるとか環境とか、そういう極めて専門知識が要るような分野にどんどん自分たちが入り込んで、一緒になって、
ただ、それにしても、ソ連が解体して、した後もヨーロッパ諸国の間でお互いに戦争をするなぞということはもはや考えられないという状態になっているということを考えればこれはすばらしいことでありますし、それから、通常よくヨーロッパ共同体作成というのは経済面での話が多うございまして、今でもユーロというような共通通貨ということもありますが、そもそも第二次世界大戦後、ヨーロッパに共同体を作ろうというふうに考えた先覚者たち
第一号条約というのは、どういう経過で歴史的に採択されるに至ったかという点を考えてみますと、この条約が採択されるに先立つこと百年、ロバート・オーエンを代表とする当時の先覚者たちが提案し、また世界の労働者階級の長い闘いがあって、そういう産物として一九一九年に至って採択されたという歴史的経過から見ても、また第一次世界大戦におけるベルサイユ平和条約の一部分として採択された取り決めに沿ってILOが創設され、こういう
結局、当時の公家社会などを含めた京都の古い体質の中に政府があったのでは近代国家としての改革ができないというふうに明治の先覚者たちは考えて、そうして最終的に東京に首都を持ってきたということが解説されておりますけれども、私は、政治や行政、その他もろもろのシステムをドラスチックに改革するに当たりましては、首都機能、国会等を移転するということは最も有力な手段、方法ではないかと思います。
そして同時に、化石燃料というものの将来性を考えるとき、原子力というものに依存せざるを得ない時期が必ず来るという、これは私は当時の先覚者たちの達見であったと思いますが、原子力発電というものにその相当部分をゆだねる供給体制が生まれてまいりました。 しかしながら、エネルギー資源において小国であるという状況については今も日本は変わりはございません。
つまり、アイヌの問題に絡むものだからじゃないかと思うので、土人保護法なんというのにもそういう先覚者たちの意見が入っている。それをどう解釈するかというようなことがあるためにアイヌの歴史というものをどう掘り起こすかという難しい問題があると思うのです。しかし、バチェラーさんのような大きな功績のある人、こういう人のことを北海道庁が何かの形で保存すべきだと思う。
中国には、「水を飲む者は井戸を掘った人を忘れてはならない」という有名なことわざがございまするが、言うならば、この条約は、単にここ数年来の政府間の交渉によってのみ調印に導かれたものではなく、多くの先覚者たちの血のにじむような努力と犠牲によって切り開かれてきたものであります。それを思うとき、本条約が国会で承認される今日、私はひとしお感慨なきを得ないのであります。
かつて日本の医学界の先覚者たちは、文明未開の原始社会に乗り込み、多くの風土病や難病の治療に尽くし、多大の成果をあげられたのでしょう。しかるに経済の発展した今日にあっては、この狭い日本の国土に僻地と呼ばれる無医地区があり、解消の糸口すらつかめておりません。 私が特にここで問題としたいことは、大都市にも同じような無医地区のあることです。
○坂田国務大臣 私の熊本県は、昔から海外雄飛の県でございまして、先覚者たちがブラジルその他の方面に大いに活躍をされておることは承知をいたしておるわけであります。しかしながら、今後移住問題あるいは人口問題の上からどう考えていくかということにつきまして、国としては、まだ私は的確に考えが定まってはおらないのではないかというふうに考えるわけでございます。
かつて人類の交流が、宗教、信条等によって阻害されていた時代、たとえばキリスト教、回教、または仏教等の宗教の差によって、人の往来、品物の往来、貿易の交流が妨げられていました時代に、先覚者たちは、自由・平等・博愛、自然に帰れと叫びまして、そして経済の交流、すなわち経済人としての人間の交流は、それは自由でなくてはならぬ、そういう意味の政経分離は私は理解し得ることであり、当時はどちらかといえば合理主義的なデモクラシー
ただ、日本書紀の背景をなすものは、これまた私どもがくどくど申すに及ばないかと存じまするが、あの推古時代から飛鳥、奈良朝にかけまして、日本の国の基礎が最も固まり、文化的にも非常に隆盛になった時代、あの奈良朝の先覚者たちが、自分たちの力でできたこの日本をほんとうに愛し、そうして先祖をしのんで、自分たちの先祖はこういうものであったであろう、あるいはこうあってほしいという願望を込めて、当時の伝承あるいは記録
でございます、高等で一〇二ということになりますが、昭和三十六年に同じ一〇〇を基本とします指数で見ますると、初等すなわち義務教育課程におきましては一一一九、中等で二〇五、高等で一七七、すなわち数十年の足取りをたどって比較しますると、初等は一〇倍、中等は二倍、高等――大学程度のものは一倍半強、二倍弱ということでございまして、総額としましては、数が多いせいもむろんございますけれども、相当の努力が従来教育界の先覚者たち
○内藤(譽)政府委員 ここに書いてあるように、その初めのところを読んでみますが、「開国後やがて明治維新が行われ、四民平等の世の中に移っていったばかりでなく、その後の政府や民間の先覚者たちの非常な努力によって、欧米の文化が取り入れられ、憲法がつくられ、議会政治への道が開かれた。
明治三十年に、神田三崎町に片山潜によって設けられたキングスレー館の活動を初めとして、多くの先覚者たちが上から押しつけられた教育や、外から与えられる教育を排して、みずからのためのみずから生み出す教育の必要性に目ざめ、そのような活動が真に起りかけて参りましたときに、時の政府は、これを明治末年の幸徳事件のでっち上げによって葬っております。
あなたは、明治初年に何か当時の先覚者たちがこれを軍国主義とかあるいはそうしたものにこじつけるために制定されたような御意見を持っておられるようですが、私たちは、あの当時は、自由民権の思想を日本に植え付けようというような考え方を当時の先覚者は持っていたと思うのです。
○小川半次君 建国の日というものはそういう国の、たとえば思想とかあるいは政治の動向とかそういうことには実際は関係なく、いかに国の政治の上に変化があっても、あるいは思想的に根本から変革があっても、国のできたその日というものは永久に変るべきものではないのであって、明治初年の先覚者たちは、自由民権的な国として育てていこうというような気持がおそらくあったのだろうと思うのです。
○小川半次君 明治の先覚者たちが海外に派遣されまして、外国の新しい思想あるいは行政一般のものを学んで帰った。その中には自由民権の思想というものも多分に持ち帰ったように聞いております。そういう自由民権の思想などもあったその時代であるから、この紀元節制定というものは軍国主義を意図して作ったものではない。
あの当時の非常に弱小国であった日本が、維新の大革新をやったからといって、強力な外国を相手に戦争をやるなどというような、そういう意図は明治維新の先覚者たちは持っていなかっただろうと思うのです。
制定したのは、先生も御承知のように、先進国を学んできたところの先覚者たちが、先進国にこういうのがあるから日本にも作ろうじゃないかといって作ったものであって、私は絶対に軍国主義に連なるものであるとか、そういうことは信じておらないのですが、こういう点はおそらく先生も学者として良心的に明らかにされるだろうと思うのですが、その御所見を承わりたいのです。
○小川半次君 最初に明治初年に新しい国の祝祭日を制定した際には、国民の動揺している思想を落ちつかすという意味も含まれていたのじゃないかというお説ですが、多分そういう点もあったでしょうが、やはり一番根本的な点は、明治初年に先進国へ学びに行っておった日本の先覚者たちが、日本に帰国してきまして、先進国ではこのように独立祭があるとか、あるいは建国の記念日があるとか、いろいろな説を持ち寄りまして、古い歴史を持
健康保険は、御承知の通り、昭和二十八年の暮以来、非常な赤字が激増しておりまして、その当時衆参両議員の中におきましても、社会保険の先覚者たちはしきりに、二十九年中に非常に赤字になるのだということを警告をされておったのであります。
他の一つの要求は、これはやはりあの原子兵器の禁止ということ、即ち原爆、水爆、細菌爆弾であるとかナパーム弾といつたような、こういう非常に悪質な、非人道的な大量殺人兵器というものの使用を禁止しなければならないというこういう要求、この二つの要求が大きな響きを以て叫ばれているのでありますが、これらの要求が、いわゆる世界平和運動を指導している先覚者たちの頭の中から割出されたのではなくて、そういうことではなくて