2021-06-02 第204回国会 衆議院 厚生労働委員会 第24号
「この改正法律案を政府において起草いたして、このたび国会に提出いたしました重要な動機は、申すまでもなく」「去る七月二十二日のマツカーサー元帥の書簡でございます。」
「この改正法律案を政府において起草いたして、このたび国会に提出いたしました重要な動機は、申すまでもなく」「去る七月二十二日のマツカーサー元帥の書簡でございます。」
これは終戦、敗戦後の九月九日に書かれ、ちなみにマッカーサー元帥と昭和天皇陛下が会われたのが九月の二十七日というような日付でございますけれども、読ませていただきます。
明治の時代に、当時の海軍大国であったロシアに対抗するために、国家プロジェクトとして舞鶴で軍港建設が進められて、今から百二十年前の一九〇一年に舞鶴鎮守府が置かれて、それで東郷平八郎元帥が初代司令長官に着任いたしました。当時、造船は国営ということで、舞鶴には海軍工廠が置かれて、新型駆逐艦の建造等が行われておりました。
しかし、当時、片山政権、芦田政権という、どちらかというと革新的な政権が短命に終わって、マッカーサー元帥は、もう吉田さんに頼るしかないと。そういう中で、救いの手を差し伸べました。それが、憲法六十九条に基づいて、野党から内閣不信任案を出しなさい、それを可決した上で衆議院解散にしましょうと。 ですから、なれ合い解散と言うんですね。 吉田さんは勝ちました。
昭和二十年の終戦の後、二十年後に、昭和四十年の八月十五日に札幌の駅前から署名運動が始まり、元島民の方々、千島連盟の方々がその署名に思いを込めて運動を始め、その前からマッカーサー元帥に書簡を出したというような歴史的ないきさつもございます。これは私たちの国の歴史なんです。
また、これも委員御指摘ございましたが、ブーゲンビル島におきましては、第二次世界大戦中に多くの日本人が亡くなり、また南部には山本五十六元帥の搭乗機が残されているなど、日本と歴史的に深いつながりを有しているところでございます。このほか、パプアニューギニア中央政府及びブーゲンビルの自治政府には遺骨収集や慰霊事業で協力をいただいているというような、このような関係がございます。
マッカーサー元帥記念館の建設、そして銅像建立構想もあったわけですけれども、この十二歳発言を機にこの構想はしぼみました。 十二歳発言には、実は様々な解釈があるようでございます。 評価する方は、日本人は思考が柔軟で理想を実現する余地があるという見方もありますし、そうした観点から、軍国主義の再来はあり得ないという趣旨の、日本人を擁護する趣旨だったという見解もあります。
○国務大臣(高市早苗君) まず、天皇陛下とマッカーサー元帥の会談に関しましては、これは所管外の事項でございます。第一回の会談につきましては外務省で公開をされていると思いますが、以後の会談に対しては、内容も存じ上げませんので、お答えは差し控えさせていただきます。
私、このニュースをまず耳にしましたときに、言葉が出ないというか、ううんと天を仰ぎまして、総理の御決心、難しさというのはいかばかりだっただろうかというふうに思いを巡らしたときに、ふと頭に浮かんだことが、旧帝国海軍の山本五十六元帥が残された有名な言葉がありますけれども、男の修行という言葉がございます。
一九五九年、昭和三十四年三月三十日、東京地裁で駐留米軍は憲法違反の判決が出た翌日、朝八時に、アメリカのマッカーサー駐日大使、この方はもう皆さん御存じでしょうけれども、GHQダグラス・マッカーサー元帥のおいっ子さんだそうです、このマッカーサー駐日大使その人が当時の藤山愛一郎外務大臣に面会をして、日本政府が迅速な行動を取り、東京地裁判決を正すことの重要性を強調し、日本政府が直接最高裁に上告することが非常
当時の幣原内閣は、平和主義思想のもとに、マッカーサー・ノートを出したマッカーサー元帥に対して、戦争放棄をした、そういう考えを示したと、これは芦部さんの「憲法」という本の中に書いてあります。
特に北朝鮮軍の場合、御存じだと思いますが、大元帥から始まって、元帥、次帥、大将、上将、上将というのは上の将ですね、将軍の将、中将、少将となるわけで、この将星、将軍の星ね、将軍の星の中では一番低い位であるとあります。この辺り確認されましたか、伊原局長。
北朝鮮の軍は、元帥というのが一番上にいて、次帥がいて、大将、上将、中将、少将、その下に大佐、中佐、少佐となっていて、星が余り大きくなかったので少将格の方だと思うんです。 もう一つは、少将で、かつ副部長ということで、私も副部長というのは部長の次かなと思ったんですよ。
例えば、一つは、太平洋戦争をめぐる昭和天皇の御認識、あるいはマッカーサー元帥の認識、そして日本国内の当時の治安の問題、さらに共産主義の脅威と日本の国防、そこに果たす米軍の役割といった問題、また戦争直後のアジアにおける沖縄の位置付けに関する問題、さらに朝鮮戦争の戦局の見通し、そして日本の安全保障体制の在り方と、こういったことが、様々な文書に目を通しますと、恐らくこの計十一回の会談の中で話し合われたようであります
これはロックリア元帥と同じ意見だと言いながら、日米同盟の強さが第一だと、次に、自衛隊の長年にわたる専門的な行動と能力であるというように述べたと。
○石原(慎)委員 注目すべきは、この裁判を設定して行わしめた当時の占領軍の最高司令官でしたマッカーサー元帥は、当然、A級戦犯というカテゴリーというのを承知の上でこの裁判を遂行させたんでしょうけれども、この男は、日本を離れた後しばらくして、アメリカの上院で宣誓し、所見を述べていますね。
かつて山本五十六元帥は、やってみせ、やらせてみせ、褒めてやらねば人は動かじと、こういう言葉を残していたかと思いますけれど、褒めることも重要なんですね、やっぱり評価するということも。 ただ、やっぱり実際に成果が上がる、個人で言うと収入だと思います。それからポストが上がる。
そして、松本烝治博士が、拒否されたときに、どういう理由で拒否をしたんですか、こう尋ねたら、もうおまえらには一切任すことはできない、我々がつくる、こういうことで、二月十二日までにつくれというマッカーサー元帥の指令がありました。皮肉なことに、二月十二日というのはアブラハム・リンカーン大統領の誕生日です。