2021-05-25 第204回国会 参議院 厚生労働委員会 第18号
りにも違うというのは、私はこの、何でしょう、国を挙げてワクチン接種事業を何とか進めよう、そして国民もみんな協力して、なるべく打ちたいと思っている人たちは早く打とうと言っているときに、ここで判断がばらばらで何か課題が起きてくることは良くないというふうに思いますので、この保険者ごとではなくて、ワクチン接種に関わったということに関してというのは、何か分かるような証明なのか、何か具体的な手だてで保険者に余り判断
りにも違うというのは、私はこの、何でしょう、国を挙げてワクチン接種事業を何とか進めよう、そして国民もみんな協力して、なるべく打ちたいと思っている人たちは早く打とうと言っているときに、ここで判断がばらばらで何か課題が起きてくることは良くないというふうに思いますので、この保険者ごとではなくて、ワクチン接種に関わったということに関してというのは、何か分かるような証明なのか、何か具体的な手だてで保険者に余り判断
当時、私は、PTへの思いにとらわれる余り判断が揺らいでしまいました。今は大変猛省をしております。 国会優先の意味を改めて深く認識し、私自身、決してこうしたことが起こらないよう自らを戒めていきたいと思います。大変申し訳ございませんでした。
そもそもの今の話だと、それぞれの指標ごとでは判断していないという話だったので、当然、それぞれの指標ごとにその後どうなったかというのは余り判断の話ではないと思うんですけれども、やはりその全体において、では、その後、世界経済は危機に陥った、新たな危機のリスクがあるということですから、新たな危機に陥ったのかどうか。危機は、陥ったんだとしたら継続中なのか。それとも陥っていないのか。
ですから、私の感じているところの趣旨は、結論的に言いますと、公職選挙法を運用面とか解釈で物事を進めるのではなくて、やはり違法、合法の境目なんだから、もう少し違法なものは違法という要件を具体的に明示して、余り判断で違法かどうかということを頭を悩ますことがないようにもう少し具体的に法律で明記した方がいいのではないかというところが私は言いたかったわけであります。
だから、余り判断能力云々ということで厳密に、十八歳だったらどうかとか、こういうことをやってもしようがないのではないかなというのが私の思っているところです。 むしろ、重要なのは、これは憲法との関係であるというふうに思います。レジュメの1の(2)の法律事項と憲法の要請というところですね。憲法九十六条の一項は、国会が発議した憲法改正案について、国民の承認を経なければならないとなっているわけですね。
ただ、私は、それは調査のやり方にもよりますし、そういう数字には一喜一憂しない、その結果を無視するというわけではありませんが、そのことによって余り判断を左右されないという基本的考え方に立っております。 私も週末ごとに各地を訪れて、百人から二百人規模の集会を一時間半ほどやり、皆様の御意見を聞かせていただいております。
それから、数字自体がどうこうというのは、私も専門ではございませんので余り判断できませんけれども、従来、利益率などを勘案してとかいう御説明が公取からあり、あるいはマージンなどの、平均マージンから考えて卸と小売を区別するとかいうことになっていて、これ自体は多分EUに比べたらずっと小さいのでしょうけれども、しかしそれなりの意味はあるのかなというふうに考えております。
○前川清成君 今大臣が結論に至るプロセスを御説明いただきましたけれども、そのお話を聞く限りでは、この法律の五十条一項四号の条文というのは、余り判断基準になっていないなというふうに思うんです。
○池田委員 総合判断ということは認めるにしても、よく総合判断と言うときは、余り判断基準を示さないでえいやでやるときが多いんですが、ただ、潜在成長率を中期プログラムに明記した、その当否は別として、それをカウントするということは客観的な指標としては悪くはないですよね。これから類推すれば、私がさっき申し上げたように、一〇年度末に判断して二〇一一年度から実施するというふうにも読み取れるわけです。
○参考人(小峰隆夫君) 今御指摘の公共的意識ですとか宗教心ですとかそういった面については私は余り判断する能力がないんですけれども、私はずっと経済をやっているんですけれども、経済的な発想というのはどういうふうに考えるかというと、何か我々の行動の結果としてまずいことが起きたときに、それは一人一人の基本的な考え方、思想が悪いんだという発想をするのではなくて、一人一人が自由に自分の好きなようにやった結果として
それから、今のところに関係することとして、裁判が起こるということが、これは親権をめぐって、どっちか法律的に決めてあれば起こらないということもありますし、それから、普通の夫婦から生まれた子供の親権をめぐってたくさん裁判があるわけですから、別に裁判がどっちが多いかということは余り判断の基準にはならないだろうという気がしております。
ところが、今、JISって何と、余り使われていないといいますか、国民がJISマークがあるから、ないからということを余り判断の尺度にしていなくなっているんではないか。
統治行為に関しまして余り判断をしないという話とか、事実上内閣法制局の事前審査や憲法解釈が最終的な国の判断となっているのではないかという指摘があります。その件についてどのようにお考えをいただいておるのか、お二人の御判断をいただきたいと思います。
三百七十五万人といっても、どれだけの数か余り判断できないかもしれませんが、例えて言えば、静岡県の人口が三百七十六万、平成十二年の国勢調査の結果。静岡県の赤ちゃんからお年寄りまですべてが、今職を失ってあえいでいるという例えができるんですよ。それがこの一年間の失業者の増大。こんな厳しい状況にある。 しかも、給与は下がり続けている。逆に、医療費は上がろうとしている。株は下がり続けている。
また、第三セクターの破綻処理に公金を投入せざるを得ないけれども、住民訴訟を恐れる余り判断に萎縮が生じ、処理が先延ばしになることによってかえって傷口が広がっているという実例も承知いたしております。
そういうIT社会になったときの学校というのはどうあるべきなのか、どういう教育が必要なのかということもぜひ御検討くださいということを申し上げているわけで、ちょっと私がそういう発言をして、非常に古色蒼然的な発言をするので、一方ではITなんて言うのでちょっとそぐわないとあなたは思っておられるかもしれませんが、そういうことだけで人間を余り判断なさらない方がいいと思いますよ。
その政策というものについての市場の判断というのは私は両論あると思いますけれども、私自身の個人的な考えを述べよと言われましたら、政策は市場は余り判断しないのではないか、このように思います。
これは技術革新がベースになっていない、それから投資効率を余り判断しない、そういったことが原因になっておるかと思います。 実は、もう一つ非常に大切な物差しというのは便利性だと思うのであります。便利性というのは非常にあいまいな概念だと言われておりますけれども、実はそうじゃなくて、一つはアクセスコストが非常に小さいことを便利と言っております。
○奥山委員 具体的に申し上げますと、今、保育園の場合に、もちろん育児の教育の内容等もあるわけでありますけれども、最近は、それぞれの保育園が非常に立派なプールをつくるとか、あるいは英語の教育をするとか、それから、各園で鼓笛隊をつくるとか、こういうふうな面が非常に強くなって、本来地道な意味の保育内容を充実させるということはなかなか目立ってこないわけでありますし、大体、どこの園ともに余り判断しにくい状態にあるわけです