2019-02-20 第198回国会 衆議院 予算委員会 第10号
六八年が明治元年ですから、その前年に、幕府、それから薩摩藩、佐賀藩、これが初めて参加をしておりまして、開催国の国威発揚を兼ねて元気で頑張った、こういう記録が残っております。 いずれにいたしましても、今までの万博は産業の展示会でありました。
六八年が明治元年ですから、その前年に、幕府、それから薩摩藩、佐賀藩、これが初めて参加をしておりまして、開催国の国威発揚を兼ねて元気で頑張った、こういう記録が残っております。 いずれにいたしましても、今までの万博は産業の展示会でありました。
以下は、時間がちょっとありますから、ちょっと余談と思って聞いていただきたいんですけれども、明治維新のときに、佐賀藩というか、鍋島藩がアームストロング砲というのをイギリスから輸入するわけです。そのとき、その大砲を日本がどうしても造りたかった。
さっき申し上げました食器に関しましては、かつて万博と縁が深くて、一八六七年、これは江戸の末期でございますけれども、有田焼を出展して、これは佐賀藩から派遣された佐野常民が販売もしたわけですけれども、有田焼が非常に人気があった。さらに、一九〇〇年のパリ万博では有田焼が最高賞をとったりしています。
ヨーロッパにおける、日本のそういった食器、つまり食をかたどる食器に対する人気というのは古くからございまして、例えば一八六七年、江戸の最後の年ですが、パリ万博におきまして佐賀藩から出された有田焼が出展されたり、あるいは一九〇〇年のパリ万博でこの有田焼が最高賞をとったりいたしました。 日本の各地のすばらしい伝統工芸の食器を、このミラノ万博に出展するだけでなくて、日本食レストランでも使いたい。
その弘道館では、佐賀藩でございますけど、どういう教育をしていたかというと、先人の様々な偉業を教えていました。例えば、名古屋城それから熊本城を築城した成富兵庫茂安という治水の神様と言われる人がいます。それまで、治水というのは一か所を手を付けると他の箇所から火の手が上がって、まず水争いという言葉に象徴されるように大変厳しゅうございました。
私も、薩長土肥の一番最後の肥が私のところでございまして、坂本龍馬も佐賀藩には随分来ていただいて、二之湯先輩には申し訳ないですけれども、アームストロング砲を持って江戸に攻め上がったのも我が先祖でございまして、そういう意味でも、今新たな百四十年ぶりの国の形を変える改革をやっている。その中心は何か。昨日、委員がお話しになりましたとおり、これは責任の改革なんですね。
同じ九州は佐賀県多久市の生まれ、幕末でございます、東大なんかなかった時代、百姓の子の生まれだけれども、佐賀藩が学資を出して東大の前身に出してやって、そして電信に関心を持たれてイギリスに留学された。郵政大臣にも申し上げておきますけれども、当時、逓信省というのはスタートからあったわけじゃございません。郵便は農商務省の一部、農林系、それから電信は今で言う通産ですな、商工の流れの一部。