2021-05-18 第204回国会 参議院 財政金融委員会 第11号
長崎においても、親しみのありました、坂本龍馬が訪ね、伊藤博文が命名をしたと言われるあの富貴楼、これも国の文化財でありましたけれども、もう今や建物もなくなってしまう状態でありまして、同じく春海、これも国の登録文化財で、建物は何とか残りましたけれども、それ以外の文化は失われてしまうというようなことは大変残念でありまして、この文化を守るという観点も含めて、地方銀行がコンサルティング、あるいは経営改善計画の
長崎においても、親しみのありました、坂本龍馬が訪ね、伊藤博文が命名をしたと言われるあの富貴楼、これも国の文化財でありましたけれども、もう今や建物もなくなってしまう状態でありまして、同じく春海、これも国の登録文化財で、建物は何とか残りましたけれども、それ以外の文化は失われてしまうというようなことは大変残念でありまして、この文化を守るという観点も含めて、地方銀行がコンサルティング、あるいは経営改善計画の
といいますのは、今、海の中を電車が走っているということを上野先生おっしゃっていただいたんですが、何で海の中を走っているかといいますと、当時、明治の政府といいますか、議会ができる前の状態で、合議制で国の方向を決めていたときに、非常に発言力のあった西郷隆盛は、これはもう軍備を強化するべきだということを強調して、一方、伊藤博文や大隈重信は、これからの近代化には鉄道だということで意見が物すごい対立して、最後
それはなぜかというと、明治当初、軍備の強化を訴える西郷隆盛さんと、それから、これからの近代化には鉄道が必要だという大隈重信さんや伊藤博文さん、こういう人たちの、言うなら対立、意見の対立の中で、最終的には鉄道の必要性も認めたんですけれども、しかし、当時、先生も御承知のように、あの品川一帯というのは薩摩藩の土地や軍部の土地がほとんどだったので、鉄道を敷くのはいいけれども、薩摩の土地は通さない、軍部の土地
その上で、大塚委員質問されている皇位継承の問題、大きな概念でいいますと二点、一つは系統の正統性、そしてもう一つが継承の安定性、こういう概念から構成をされるわけでありますけれど、明治二十年三月二十日の高輪会議、原案は井上毅が作って、そこに伊藤博文が加わって作るわけですけど、それ以来、この議論というのはどちらかといいますと継承の安定性についてどうするかと。
参考資料にも記載しておりますが、明治二十二年当時、枢密院議長であった伊藤博文が記した鎮守府配置の理由及び目的にも、国防上、舞鶴に日本海側の防衛拠点を置くことの重要性を述べられているところであります。 以来、舞鶴市は、今日まで、海上自衛隊舞鶴地方隊や日本海側唯一の海上自衛隊ヘリコプター基地が所在する日本海側の国防の重要拠点として海洋国家日本を守り、支え続けてまいりました。
これは、豊臣秀吉が朝鮮出兵するに当たりまして、ちょうど九州のあたりに駐留していた兵士が行く前に釣りをして食中毒を起こしていた、戦いの前に死ぬのはどういうことだということで禁食令を出して、それが江戸時代ずっと続いたんですが、初代総理大臣の伊藤博文がこれを解禁する、そしてその第一号店が春帆楼でありまして、そこで日清講和条約が結ばれております。
私のお願い、私の考えとしては、私たちの町は、安政元年に日米和親条約を結び、横浜の開港を、この国の開港をやり、そして、神奈川の私の選挙区は、総理の御地元である伊藤博文総理がいらして、まさに明治憲法の草案をつくり、そして戦争を乗り越え、この国の繁栄と豊かさと幸せを大災害を乗り越えてつくってきた、その日本の最初の原点である都市なんです。
安倍総理の通算在任日数は、伊藤博文を抜いて歴代三位となったとのことです。これ自体はすごいことでしょう。しかし、宮澤喜一元総理は、一つの党が余りにも長く政権を掌握することは人心がうむ原因となりますと述べています。まさに今の取り巻く状況がそのようになっているのではないかと私は危惧しております。
○国務大臣(麻生太郎君) 岩倉使節団が初めて二年にわたって海外に、伊藤博文公、大久保利通、いろんな人を連れてあのとき回って、そのときに、図書館、議事堂、中央銀行、それから駅、鉄道の駅等々をみんな見たという記録が残っているんですけれども、公文書館は入っていませんものね。見損なったんですよ、あの人たちが。最大の罪はあそこにあると思いますけどね。
明治十九年ごろ、宮内省は、西欧の王位継承法を取り入れようとした女系の皇位継承を認める案を立案しましたが、井上毅は、一官僚として謹具意見と題する反論の意見書を伊藤博文に提出いたしました。 井上毅の反対論を現代的に表現すると、以下の三点となります。
先ほど江島先生の方からフグの輸出の話もありましたが、フグ、秀吉の時代に禁食令が出されて、そして江戸時代を通じてずっと禁食という形でありましたが、これを解禁したのは先生の御地元の伊藤博文公であったと、このように考えているところでありますが、日本にはすばらしい、農産物だけではなくて、工業製品も含めてそういったものがあるわけでありまして、攻めのTPPを進める、極めて重要だと考えております。
だから、俺の祖先の大久保利通も行っていますよ、伊藤博文も行っている、みんな行って、公文書館行ったという記録が残っていませんから、見なかったんですよ、多分。だから、公文書館というのは、明治以来この方、余り重要視されてこなかった。
それは、明治十一年の府県会規則にさかのぼり、伊藤博文の言葉をかりれば、行政と議会の区域を明らかにし、お互いに権限を侵さず、その権衡、これは均衡と言いかえてもいいと思いますが、その権衡をとるの習慣、これを形成してきた。そして、現行憲法が、議員と長、両者の直接公選を規定し、そこでは、特に政治の民主化として、長の直接公選が大きな意義を持っております。
しかし、その当時の伊藤博文翁が譲位については拒否をして、皇室典範に入れなかった。 そのときの議論は私は存じ上げませんけれども、時の政府がその当時どう考えておられたかというのは、容易に理解がつきます。譲位をされた天皇と新天皇、反政府にどちらかがついたときに、また国内戦争が起こる。起こらないようにどうするのか。
もともと、皇室典範というのは明治以降につくられたもので、そのときの考え方等々が、伊藤博文翁のお考え方も踏まえて、その当時の政権の考え方がやはり大きく入っている。それだからこそすごく難しい部分があると思っております。 それでは、歴史的に見まして、その当時当時の陛下が退位した例はどれぐらいありますでしょうか。お聞かせください。
明治憲法を作成するに当たり、一八八二年、憲法制度の調査のため渡欧していた伊藤博文がウィーン大学のシュタイン教授に協力を依頼したとき、シュタイン教授から、そもそも憲法とは民族精神の発露であって、自国の歴史や慣習に根差したものでなければならない、自分は日本の歴史や習慣を知らないので手伝えないと断られたと伝えられています。
ぜひ欧米の実態を見に行きたいと言ったところ、御多分に漏れず、政府はお金がないということだったんですが、総理大臣になる直前の伊藤博文が決断をして、やはりレベルアップのために海外派遣が必要だということで、高橋是清はアメリカやイギリス、フランス、ドイツで認定審査の記録、資料を、そのころはコピーじゃないですから全部手書きで写したり、そして弁理士から話を聞いたりして学んでまいります。
本日はちょっと時間がないため、憲法九条の問題や、私の資料の最後につけた伊藤博文、吉田茂の言葉については省略し、後ほどもし御質問などがあればお話しさせていただきたいと思います。
日露戦争直後の一九〇五年、保護条約はどのようにして締結されたのか、伊藤博文が憲兵を引き連れて宮廷に押し入って強引に調印させたものです。宮廷の外では、日本軍が演習と称して大規模な軍事的威嚇をやりました。退出しようとした大臣をつかまえて、伊藤博文が余り駄々をこねるようならやってしまえと脅し付けながら、文字どおりの強圧的なやり方で従属化を図りました。
法制局長官の上司は官房長官ですから、官房長官がお決めになるんでしょうけれども、しかし、その専門的見地からさまざまなアドバイスを、これまで、もう伊藤博文が第一次内閣をつくってから六十六代目ですよね、法制局長官、六十六代まで営々と積み重ねてきた。
○林国務大臣 大変大事な御指摘でございまして、少し昔話になりますが、山口県の大先達の伊藤博文の子分と言われていた品川弥二郎というのがおりまして、これがドイツに留学したときに、青木周蔵という人と話をして、今まさに委員がおっしゃっていただいたように、大資本と小さい人が渡り合う、どうしたらいいのかということを話していたときに、ドイツには協同組合というのがあるんですよ、こういう話を聞いて、その後、品川は自分