そして、田中先生の友人に紹介されて田中先生にお会いをして、自来、三十二歳で郵政大臣をおやりになりましたときにも自分の町の郵便局の建て替えをお願いをしたり、そういう中から度々お宅を訪問する機会を得て、結果的に、京都で二議席の、前尾、谷垣両先生がお亡くなりになりまして補欠選挙が行われたときに、くしくも谷垣先生の御令息、今法務大臣の谷垣禎一さんと私が、ちょうど京都の副知事を一期で辞めさせていただいた直後でありましたので
野中廣務
私はお父さん幸一先生と、昭和四十四年に初当選したときに、議席が隣同士でございまして大の親友でございますので、その親友の御令息の御配慮に心から感謝をし、これで終わりたいと思います。ありがとうございました。
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中山正暉
しかし、昭和新山の場合も、この間御令息の三松さんという方にお目にかかりましたが、麦畑が突然四百メートルばかりの山になった。そうなりますのに六カ月ぐらいかかっておるようでございますから、その意味で、有珠山の火山活動の今後の見通しを現段階で判断するのは大変難しいと思いますけれども、政府といたしましても、この噴火が長期化することを視野に入れて対応する必要は先生の御指摘のとおりでございます。
中山正暉
もう引退をされてしまいまして、今はもう御令息の時代になりましたが。
中山正暉
○公述人(所功君) 実は、もともと君が代曲は儀式に使う、つまり外交儀礼あるいは公式儀礼に使う歌としてつくられましたし、とりわけそのもとをつくりましたのは宮内省の一等伶人の林広守、あるいはその御令息等々でありますから、荘重なゆったりした調べになっております。
所功
そしてその際、先年カンボジアで御令息を失われて、その後そういったボランティア活動で大変な活動をしておられます中田さんも御一緒でございました。今、UNVの名誉大使という立場で活躍しておられますが、その際にもいろいろなお話を申し上げた次第でございます。
池田行彦
これは、昭和二十年の六月だと思いますけれども、沖縄における戦火が終わろうとするころに、当時沖縄にございました海軍の部隊の指揮官でありました大田實少将、これはちなみに、その御令息が先年ペルシャ湾へ掃海艇で派遣されたのです。
池田行彦
そしてその中で、棚橋前次官の令息が選挙に出るときの箔づけ人事という、これがけしからぬと書いてございました。牧野官房長が私に申しました第一点の、大事についておかしなことはなかったというのは、通産省の中で調べてみたところ、その大事については不正不当はなかったんだ、だからもうおさまつたことだ、だから質問はやめてほしい、こういう趣旨でございました。
大塚和彦
○国務大臣(林義郎君) 山田委員は同じ山口県の出身でありまして、大変平素から御厄介になっておりますが、御尊父の時代から、御尊父も大蔵委員であられましたし、御令息もまた大蔵委員会をやっていただきまして、本当にありがたいことだと思って感謝をいたしておるところでございます。
今景気の認識をどうだと、こういうふうなお話がございました。
林義郎
そこでお伺いをいたしたいのでございますが、金丸元副総裁が東京佐川急便元社長の渡邉氏から五億円の政治献金を受けて、規制された額を超えたということで略式命令で二十万円の罰金の刑に服されたのでございますが、竹下証人のお嬢様が金丸元副総裁の御令息のお嫁さんに行っておられる、御親戚ということでありますし、政治的にも長い長いおつき合いで、親友であられて、同志であられる。
中山正暉
○中山(正)委員 先ほどもお話がございましたが、御令息も後を継がれて宏池会におられまずし、それから女婿、いわゆるお嬢様の御主人も宏池会に所属をしておられます。
中山正暉
○中野委員 それから後に、例えば御令息が御出席をされました釜石工場の落成式のこと、そしてまた麹町倶楽部のこと、福岡工場の落成式のこと等々と、こうおつき合いがつながっていったと思うのでございますが、その中でこの森口元副社長、共和の創業者の息子ということでございますけれども、正体といいますのは、けさほども塩崎さんにお尋ねしたのでありますが、この森口副社長というのは、昭和六十二年、青森県三沢市長の収賄事件
中野寛成
掃海艇部隊のまた指揮官の落合さん、あの人が何と沖縄で最後の海軍こうの中で自殺をされた大田少将の御令息だそうでございますね。私はくしき因縁だな、後世沖縄に特別の配慮を。沖縄開発庁長官がこの間特別措置法がもう切れるので何とかしたい、これも今ついでのことに申し上げておきますが、この間テレビでお話を伺わせていただきました。
中山正暉
今ごろは、はるか天国で先生は若き奥様と四十有余年ぶりに再会し、来し方を振り返りつつ、御令息信彦君が御遺志を受け継ぐ決意をされたことや、靖子さん初めお孫さんの話に花を咲かせておられることでありましょう。
先生は、なすべきことはすべてやり抜いたという満足感からか、穏やかな表情で永遠の眠りにつかれたそうであります。その死は、激動の戦後政治の一つの終わりを告げるものと申せましょう。
山口鶴男
園田先生のお父上は外務大臣もしておられましたので、私も外務委員会に長いことおりまして大変御指導をいただきましたが、御令息のこれからのそういう意味での御支援に期待をいたしまして御答弁といたします。
中山正暉
私どもも中学の後輩に与謝野晶子さんの御令息で与謝野アウギュストという人がおった。昔でもやはり尊敬する芸術家のお名前を借りて子供につけるというようなことはあった。これからは氏を外国人の夫の氏にすると、これは当然英語で書くわけにはいかぬのでしょうね。あるいはフランス語で書くわけにはいかぬ。やはり日本語に直して片仮名で書くということになるんでしょう。
寺田熊雄
先生の御令息莞爾君は、先生を追悼して次のように歌われております。
いつも、勇気と茫然とした姿勢をもてといっ
た。
いつも、民衆のはかり知れない力を信じると
いった。
いつも、この土地と日本民族のことを考えろ
といった。
いつも、あいまいな妥協は決してするなと
いった。
いつかお前は俺とけんかをしながら俗を越え
てゆけといった。
と。
渡辺三郎
(拍手)
川口君が御逝去されましたのは午前十時三十分と承っておりますが、私が、その知らせを得て病院に到着いたしましたのは十一時三十分、御遺体はまだ霊安室に移されず、奥様、御令息、御近親に守られながら、闘病のベッドの上に白布をかけられて安置されてありました。
石田博英
鈴木総理には御令息に俊一という方がおられまして、この本の中に、こういうことを言っておられます。「父に厳しくしかられた記憶はまずありません。しかる以前にこういう例もあるんだという教えが先に立つ。」——これは、総理の、長い豊かな人生経験と、温和で誠実な人柄をよく表現していると思います。
植木光教
その御令息であるから、引き続き父子を敬愛する立場であえて最後に激励の言葉を申し上げ質問を終わります。
受田新吉
先ほどのお話しをお聞きしておりますと、御令息を殺した男が、自分の気持ちからすれば、何と言いますか、一口に言えば寛大に取り扱われているので、これも卑近な言葉で言えば、虫がおさまらなかったというお話しでございました。
大竹太郎