2015-03-26 第189回国会 参議院 法務委員会 第3号
じゃ、父のような存在というのはどういうことなのと聞きましたら、尊師は、目標というのは仏教者としての、彼らなりの仏教者としての目標なんですけれども、父のような存在というのは、彼にとっては、てきぱきとこういうことをしなければいけないということを指示してくれる、そういう存在だと言いました。 上祐元幹部の個人的経歴についてはここでは話しませんけれども、やはり若い頃から父親との関係を彼は悩んでいた。
じゃ、父のような存在というのはどういうことなのと聞きましたら、尊師は、目標というのは仏教者としての、彼らなりの仏教者としての目標なんですけれども、父のような存在というのは、彼にとっては、てきぱきとこういうことをしなければいけないということを指示してくれる、そういう存在だと言いました。 上祐元幹部の個人的経歴についてはここでは話しませんけれども、やはり若い頃から父親との関係を彼は悩んでいた。
全日本仏教会の総務部長が、遺骨が返還できないのは死者への冒涜だ、仏教者として看過できないということも述べたというふうにこの記事の中にはございます。 今、八百十七名分の朝鮮半島出身と見られる遺骨が判明をし、その中で四十二名分については韓国側に問い合わせをして遺族も確認をされているということなんですけれども、この返還がいまだに実現しない理由というのは何なんでしょう。
法の目をくぐり抜けようとするような不心得な者をつくり出さないというのが、これはもう仏教者に、あるいは宗教者に求められていることだと。だから、政治家はしっかり法律の網をつくります。その網をくぐらないような人間をしっかり仏教者の方々、宗教者の方々はつくってくださいと、こういうふうにおっしゃって、私は非常に感銘を受けました。
四月二十七日 仏教者に対する国会衛視の行き過ぎ行為の是正に関する陳情書外一件(第一九三号) は本委員会に参考送付された。 本日の会議に付した案件 会計検査院法の一部を改正する法律案起草の件 本会議における議案の趣旨説明聴取の件 本日の本会議の議事等に関する件 午後零時一分開議 ――――◇―――――
以前はうちの党にもクリスチャンの政治家とか、赤松常子さんといった仏教者何党がわかっちゃいましたか。仏教者の政治家が案外いたから、信教の自由が民主主義の絶対的基盤であるという政治哲学的教養とか理念のようなものが党内に割合とあったものだが、今はそういう議員もいなくなったようで、そんなせいからなのかどうか、そういう空気も体質も無くなったような感じがして淋しいね。こう結んでおられる。
私は仏教者でありますので、仏教の教えに三草二木の例えというのがございます。大きい木は小さい木よりもまさるということはない。人間、大小によって区別、差別しちゃいかぬ。小さい草は大きい草よりも劣るということはないんだと。強い弱いによって人間、差別はないよと。野に咲く小さなスミレの花も美しければ、背丈の高いススキにも風情があると。
○国務大臣(竹下登君) 確かに、仏教者としての立場からの御意見というものに対して、私ども愚か者に対して一つの人生の指針を与えていただいたような感じで承っておりました。ありがとうございます。
宗教界全体がこの問題について議論をし、町田氏のそういう差別発言に対して糾弾の声が大きく上がってきておるわけでございますが、そのことについて政府は知っておるのか、また政府はこのことに対して一体どのように考えるのか、政府なり国会なりが少なくとも部落問題について一定の見解を出し、いろいろなことがなされておる、それさえも一部の人間が騒いでいるというような形で誹謗中傷するような状況にあるわけでございまして、本当に仏教者
仏教から離れて行くゆえんではなかろうか、こういうことを考えまして、私の理想は、この比叡山を開放していただいて、そうして横川谷の方は小乗仏教の道場を専一にし、あるいは根本中堂の方は大乗仏教の極意研究の学場をつくつていただくということにいたしまして、東洋仏教の研究者あるいは仏教にあこがれを持つておる留学生等を、無料もでつてこの大乗仏教の花が咲いておる日本の土地に来てもらいまして、そうして将来ともりつぱな仏教者
としては、同じ窓口で片方が泣き顔をしておるのに片方が笑つておることは人情としてきない、こういうきつい抗議が来ましたので、それもごもつともなわけで、仏教保全経済会と申しましても保全経済会と申しましても実際一つになつて、きようだいのような、また異体同心というようなことで来たのですから、それが急に悪くなつたというて、仏教保全経済会だけは同じ窓口で保全経済会の方がどんなに泣いておつてもかまわないということは仏教者
それからその次に、先ほど保護司の数の中で宗教者の別がございまして、私ちよつと仏教たものでございますから、これは仏教の人どキリスト教の人、いろいろあると思うのでございますが、私少し仏教者に反省を求めたりいたしたいと思うのでありますが、どのくらいございましようか。
しかしながら、この遺骨というものに対しましては、いろいろのときに法要を営まれておりまするが、それは現地において各地で行われて参つたのでありまして、すでに戦争後、昭和二十五年から引続いてずつと、仏教者の手によつて、現地で、毎年七月一日のこの殉難の日をトしまして、法要が行われて参つたのであります。しかるところ、いよいよ東京にお迎えを申し上げまして、そうして浅草本願寺、これは私の方の別院であります。
今度は別に何も交換條件がない仏教者の立場なんであります。そこで認証を届出主義にして——なるほど新興宗教の雑多なインチキ宗教が取締りにくいから、こういう認証をするというような規定も考えられるのでありましよう。しかしながらその新興宗教が雑駁で迷信邪教だと一概にけなすわけには行かないのであります。仏教の正しい改革運動に挺身する私の建前も、実はある意味においては新興宗教の一つであります。