2013-11-28 第185回国会 参議院 文教科学委員会 第5号
例えば、中学入試や高校入試で人物評価できるのかというと、人格完成のまだ途中の段階で同じようなことを、つまり大学入学試験改革と同じようなことを高校入試や中学入試でするというのはこれは相当の無理があるというふうに思いますし、発達段階に応じた入学試験の在り方はあるべきだと思います。 だからといって、今の中学入試や高校入試がいいというふうには全く思っておりません。
例えば、中学入試や高校入試で人物評価できるのかというと、人格完成のまだ途中の段階で同じようなことを、つまり大学入学試験改革と同じようなことを高校入試や中学入試でするというのはこれは相当の無理があるというふうに思いますし、発達段階に応じた入学試験の在り方はあるべきだと思います。 だからといって、今の中学入試や高校入試がいいというふうには全く思っておりません。
これらはいずれも人格完成において非常に重要なものである、そしてこれらを培うことが教育の基本的な機能であることから、新たに目標として明示をさせていただいておるところでございます。
○中井委員 教育で神のような人格完成を目指すというのは本当にできるのでしょうか。また、そんなことが目標というような法律でいいものかと僕は思わざるを得ません。 そういう意味で、民主党の法案を見ますと、「教育は、人格の向上発展を目指し、」と書いてあるわけであります。
このような時代にありましては、世界的に水準の高い義務教育を実現することは国政の最重要課題であると、このように認識しているわけでございまして、産業云々というよりも、今日的な、生きる力というものをそれぞれの国家、社会の形成者たる人格完成に向けての教育の中で備えさせていくということが必要だと、このように考えるからでございます。
○河村国務大臣 前段の大競争時代、一般的にそういう言い方をいたしますが、特に、日本のこれからの立国の観点からいうならば、もちろん、人間力向上という基本的な人格完成のための教育、俗な言葉で言えば立派な日本人をいかにつくるかということが教育の根幹にございます。
個人が人格完成に向けて発展する権利は、人権保障上で重要さを、重要性を増してきています。教育権は、義務教育だけにとどまらず、社会の変貌過程で転職を余儀なくされる場合の職業能力の養成なども人権保障の内容を成すことになります。 人権保障は、実体面で規定されるだけでは絵にかいたもちとなります。
そういう意味では、人格完成という、そういう人間の生き方とおっしゃいましたが、そういうものは不変であり、これは一番基礎的なことではないかと思います。 流行というのは、国際化とか情報化と今騒がれておりますが、これは二十一世紀になればもう消えうせている、私はそういうふうに考えます。
やっぱり義務教育のレベルに子供を送るときは、私も父親の一人として、将来国民として必要なことをきちっと身につけてこいと、教育基本法には人格の完成を目指して教育は行われると書いてありますけれども、やっぱり平和な国家社会の形成者として、教育基本法に書いてありますようなことを身につけながら、一歩でも二歩でもだんだんだんだん人格完成を目指して向上していくような、そんな感慨を持つ子供になるためにやっぱり学校へは
言論の自由というのは人格完成のための手段でありまして、目的のためにその手段は制限されるのは当然でありますから、そういうマスコミの反論なんかを恐れずに答申をしていただきたいと思いますけれども、お考えいかがでございますか。
ですから、そういった多様な生活訓練をもっともっと提供して、時間やエネルギーというものを結果として成長期の児童生徒は身につけていくように、体験していくように、人格完成の上にもそういったことは大事だと思いますから、いろいろな角度からまた研究、調査を進めて、先生の御質問の御趣旨等も十分に参考にさせていたたいて、努力をしてまいりたいと思っております。
そういう同じ年というのじゃなしに、あの戦争中、国のため天皇のためには国民は喜んで死ぬべきだというような教育体制から、戦後の教育というものは、「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成」、そういう教育に変わったわけでございまして、人間が主人公で、教育行政、国というものはその人格完成のための教育の条件を整備するためにあるんだ、こういうぐあいに変わったわけでございます。
そして今私が、いつでも、どこでも、だれでもと申し上げましたけれども、例えば放送大学、視聴覚教育あるいはまた専修学校、各種学校を充実をしていくとか、必ずしも資格的なものを取るだけではなくて、教育の目指すものは人格完成、人格形成にあるわけでございますから、そういう意味で教育への努力というものはこれでいいということではございませんので、文部省といたしましても、国会の審議等いろいろな角度からの御意見等を踏まえながら
自分が教育した子供がこうなったんだと、しかしこの点は反省しなきゃならないと、だからこうしなきゃならないというように、積み重ねの中で人格完成というものができる。これは一生かかると思ってもいいと思うし、孫の代まで続けなきゃならぬだろうと思うのです。
こういうふうに今日の青少年が人格完成を目指そうと目指すまいと、意識しようとしまいが、そのために身につける教材とも言うべき事柄は大人の私たちには考えられないぐらい幅の広い面から受けている、そのことをまず大人が理解をすることだ、これが私は青少年教育の今日の基本の問題であるというふうに考えております。
幾ら資源が豊かな国だから人間の教育が軽視されなければいけないわけじゃないんであって、どこだって人間の教育というものは、その個人の人格完成の上に欠くべからざるものであるという考え方に立っていかなければいけない。まさか国の手段に教育を使うなどということを考えてはおられないと思うけれども、私は、資源小国とか、そういうこととかね合わせて教育の重要性を強調するという点については、やや気をつけなきゃいけない。
したがいまして、生まれてから死ぬまでの間が人格完成の期間であり教育の期間である。こういう観点に立って教育というものを考え直してみようというのが、今度の改革の趣意である、かように考えておるのであります。
中教審の答申の一番のねらいは、人格完成のために教育を行なうのは、生涯にわたる教育でなければならないということを主張しておるのであります。したがって、六三制の制度がいいのなら、そのまま続ければいいのであります。何もそれを、中教審の答申があるから変えなきゃならぬと、私は考えてはおりません。
また、そのことが同時に、先ほど申しましたような人材の確保にもつながっていくし、またよりよい個人の人格完成あるいは文化の豊かな形成というものにもつながっていくということでございまして、思い切った投資というものがなされねばならないということが、当然要請されると思うわけでございます。
従来はとかくばく然とそういうことがいわれておったわけでございますけれども、最近におきましては、経済成長を一つ取り上げても、その根底には教育の普及というものが非常に大きい意味を持つということもいわれておりますし、また一面においては、その社会を形成していく人間というものが、精神の面におきましてもバランスのとれた、個人としても非常にりっぱな人であり、そしてそれが社会の形成者としての意味を持ち、その個人の人格完成
どうも、さっきから国家意識が少し強過ぎやしないかというようなお尋ねじゃないかと思いますが、そういうような意味にとられると困りますけれども、私は、教育基本法のいう国家社会というか、そこにいうような人物、人格完成、それがやっぱり教育の真のねらいじゃないかと思っております。そういう意味で、その目的に沿うものがこの際考えられなきゃならないと、かように思っております。
じますけれども、私どもといたしましては、従来の職業訓練法の第一条の「目的」におきまして、工業その他産業に必要とする労働者を養成するという書き方をしておりまして、どうも需要に従属するというニュアンスが強過ぎたんじゃないかということを反省いたしまして、今回の職業訓練法におきましては、「職業人として有為な労働者を養成し、もって、職業の安定と労働者の地位の向上を図る」ということで、労働者の職業人としての人格完成
そういうことでもって、こうしたことについての論議を、こうした国会のみならず、これは一般に、教員の問題が問題になっておりますけれども、そういたしませんと、さっきは一つだけ人格完成という問題を申しましたけれども、実は真理と正義を愛しという問題が、私が聞かないのに教員の側から出てまいりました。
このためわが国教育は教育技術に堕し、知識技術の切り売りが行なわれ、豊かな人間形成とかあるいは高い人格完成というようなものは期しがたいのでございます。ソ連や中共の生徒守則を見ましても、祖国を愛するとか、親を大切にするとか、弟妹をいたわるとか、目上の人を尊敬するとか、教師に望従するとか、二十数項目の具体的な指導目標が明確にされておるのでございます。
世界に類例を見ない入試制度のために日本の教育は破壊され、いまや日本中の小・中・高等学校、幼稚園までが大学受験の予備校化して、百科事典式知識の詰め込みに追われて、人間形成とかあるいは人格完成というようなものは片すみに押しやられて、親も子も教師も進学に狂奔しておるという状態でございます。その結果、人間不在の教育が行なわれているといわれているのであります。