2004-03-16 第159回国会 衆議院 外務委員会 第7号
これは、北京、上海、天津に次いで四番目の直轄市ということで、州と同じ扱いをする、それだけやはり重要な都市ということ、特に地理的でございますけれども、中国の内陸部における中心的な都市であるということでございます。 そして、これは、今まさに委員御指摘のとおり、利便性というか、交通ということからいいますと、私も参りましたけれども、上海から飛行機で二時間半以上かかるという非常に離れた場所にございます。
これは、北京、上海、天津に次いで四番目の直轄市ということで、州と同じ扱いをする、それだけやはり重要な都市ということ、特に地理的でございますけれども、中国の内陸部における中心的な都市であるということでございます。 そして、これは、今まさに委員御指摘のとおり、利便性というか、交通ということからいいますと、私も参りましたけれども、上海から飛行機で二時間半以上かかるという非常に離れた場所にございます。
ところが、そこで、上海—天津間で商売をやっているのはモトローラ、モトローラが電話事業、ああ、日本のインフラストラクチャーはアメリカの電話会社の下準備だったんだなという気がしたんです。 ですから、私は、世界を一つにするという思想から、ぜひひとつ……
あるいは上海、天津ほどではないというようなことがございまして、日本の進出企業の方によっては、安全、安定であると判断したところがあって、松下さんのように残って、そのまま営業を続けられたというところもあったのではないかと思います。
あるいは向うから来たのだから、こちらからまたすぐ上海、天津、北京、モスクワなりウンラ・バートルを通っていくことは、一向空の自由の範囲でかまわないということなんですか。そういうことをお聞かせ下さい。
中国に参りますと、広州に行きましても、北京、上海、天津とどこを回りましても、町に相当数量の自動車がございます。特に建国祭の日のごときは、北京の町は、自動車であふれておりました。そのスタイルを見ますと、メイド・イン・イングランド、メイド・イン・USA、メイド・イン・ジャーマ二一、メイド・イン・ポーランド、銘柄はワルシャワである。
現在日本船はほとんど毎週ひっきりなしに上海、天津の港を往復しておるわけですから、そのくらいの便宜は展覧会会期中に開いていただけばけっこうだと思いますが、この問題についてはまたもや外務省がおそらくなかなか承知せぬのじゃないかと思います。しかし展覧会のときに専門家が行かなければ展覧会の効果は非常に薄いと思うのです。
そうして、船を入れますにつきまして、上海、天津、秦皇島等の三箇所を選んだところに、大体においてこの三方面を中心として日本人が残つておるということが想像できます。その比率がどういうぐあいになつておるかということを想像いたしまするときに、第一回の船に乗つて帰る人の数が、天津が千人、上海が千五百ないし二千人、秦皇島が二千人ということを申しております。
上海、天津北京等に店を持つておつた銀行の勘定、これらの勘定はどう処理されるかということが非常に大きな問題となつて残つております。従いましてこれらの処理についてできるだけリザーブを置いた上で処理する、こういうわけであります。これができませんと、又先ほど申上げましたように、これを政府補償をしなければいかんということが外交交渉次第によつて起つて来るという心配があります。
また他方中共貿易については、政府は戰前から満州国等に多大の投資を行いまして、また上海、天津その他にも多大の投資がありましその上に領事裁判券、租界、その他いろいろの特権を享有しておりました。その上に立つての中国との貿易の量が非常に多かつた時代を夢みて、今でもやればそういうふうになれるのだということは、非常な考え違いであるということを申しておつたのであります。
かつての上海、天津等の租界が脱税とやみ取引の温床であつたことは明らかでありますが、この法案は、明らかに日本全体をかつての上海、天津のごとき、やみと脱税と犯罪のちまたに化する法案であります。(拍手)今日、地方税の強制徴收は峻烈をきわめまして、たといわずか百円に満たない滯納に対しましても、軒並に強制執行をやつておるのであります。
○島津政府委員 総領事館は広東、重慶、昆明、廸化、北京、大連、漢口、上海、天津、青島。領事館は厦門、奉天、南京であります。
また中共政府の方におきましては、当時日本の技術者を相当使つたのでありますが、現在都市解放、上海、天津、北京、南京、漢口、あるいはああいう方面を解放した後には技術者が多数余つたのであります。また生産機械というものは非常に少いのでありまして、技術者等は非常によけいあつても、生産能率などというものは非常に低下して行くのでありまして、自然技術者等も必要としない。
その後済南の銀行が全部北京、上海、天津の三つに分散するということになつたのですけれども、大体日本人は天津行きの命令があつたのです。二十五年の一月に天津に出まして、それから二十五年六月まで働きました。
大体帰りました出港地は上海、天津、北京、青島、大沽、いろいろございますが、二、三の例をあげますと、上海から横浜にノールウエー船で帰つたのは七十五ドル拂つております。それから青島から神戸に入りました、これは船籍がちよつとわからないのですが、百五十ドル拂つております。