2021-03-09 第204回国会 衆議院 総務委員会 第9号
○井上(一)委員 じゃ、最後の質問で、今回の基準に照らすと、私の地元京都北部では、伊根町、京丹後市、福知山市の旧大江町、福知山市の旧三和町、福知山市の旧夜久野町、宮津市に加えて、新たに与謝野町が対象となるというふうに認識しておりますけれども、これでよろしいですか。
○井上(一)委員 じゃ、最後の質問で、今回の基準に照らすと、私の地元京都北部では、伊根町、京丹後市、福知山市の旧大江町、福知山市の旧三和町、福知山市の旧夜久野町、宮津市に加えて、新たに与謝野町が対象となるというふうに認識しておりますけれども、これでよろしいですか。
本法律案の過疎地域の要件に該当いたします京都府北部の市町村につきましては、委員御指摘のとおり、伊根町、京丹後市、宮津市、福知山市の旧大江町、旧三和町、旧夜久野町及び与謝野町でございます。
今、三和って何という銀行になったんですと言われて答えられる人の方が珍しいぐらい。消えましたよ、本当に。ここにいた人もいるけれども。三井、住友、三菱ぐらいでしょう、昔の名前で残ったのは。そんなものですよ。東京銀行を含め、本当になくなった。それほど金融は徹底してやられるほど、この時期はそういう時期だったんですけれども、それから数えてかれこれ三十年近く。まあ、バブルが平成元年とするならそれです。
三菱銀行、東京銀行、三和銀行、東海銀行、三菱信託、東洋信託、日本信託。三菱UFJフィナンシャル・グループになって本当によかったときっと思っていると思います。一つの信託銀行だけでは多分生き残れていないんですね。 日本は過当競争が過ぎるというOECDの調査があります。企業数が多過ぎるので、いい商品をつくっていても値段をたたき合いし過ぎなんですよ。中小企業庁は企業の存続を守り過ぎです。
それから、平成十八年には、福知山周辺の大江、夜久野、三和町、こういうのが合併して大きな福知山市になりました。それから、その上の加悦、野田川、岩滝、これが合併して与謝野町というのができたところです。
三井住友と東京三菱ぐらいで、あとはもう、りそなだかぱそなだか、いろいろな、何だかわからないようにくちゃくちゃになりましたので、正直申し上げて、三和銀行って今何ていうんですとすらすら答えられる人の方が珍しいですよ。
ほかにも、磐越自動車道、いわき三和から西会津の間で九%増えたという結果が出ています。これにめぐりますデータというのの数字が多少違いますけれども、経済波及効果は国土交通省の調べでは三千六百億円、お土産そのほかの間接効果というものは八千億円と私は報告を受けております。
その上で申し上げさせていただくと、やはり九七年、九八年、確かに、山一に限らず、三洋証券も倒産しましたし、翌年には長銀から何からみんなという騒ぎになって、御存じのように、おられた三和が東海、それが三菱と一緒になって、今は三菱東京UFJということになったりして、昔の名前で出ています銀行というのはもう三井住友と三菱東京ぐらいのものになったほどの大騒ぎをやったのはもう間違いありませんよ。
二〇〇四年の金融機能強化法というのが、実はこれは私が銀行をやめた年なんですけれども、ちょうど二〇〇〇年、二〇〇一年のときは、私はもともと三和銀行ですが、東海銀行との合併のフロントの責任者をやったんですけれども、その後、竹中さんが金融担当大臣をやっておられましたが、メガバンクをどんどん吸収、一緒にしていくということで、三和銀行もちょっとやり玉に、ターゲットにされまして、それからUFJになったんですけれども
多くの都銀が過日の、過日というか、もう大分前ですけれども、いわゆる金融危機辺り、九七年、九八年、そうですね、銀行でいえば長銀が潰れ、債券信用銀行も倒産し、多くの名立たる都市銀行がほとんど合併をして、昔の名前で出ていますという銀行は、もう今、三井、三菱、三井住友銀行と東京三菱UFJぐらいですかな、あとは本当に、りそなだかパソナだか分からぬような名前にみんな変わったし、今、昔の銀行の名前言える人って、三和銀行
都市銀行もずっと再編で来まして、私はもともと三和銀行ですけれども、そこからだあっと、跡形もなく、今大きい銀行になっておりますが、最初に東海銀行さんと一緒になりましたが、私は、東海銀行という銀行がなくなったのは、ある意味、非常に残念だなと思っているんですね。
大和銀行に対する株主代表訴訟が大変大きな社会的な注目を集めましたが、かつて私は三和銀行の株を持っていましたと、東京銀行の株を持っていましたというふうな人たちは今この三菱UFJの持ち株会社の株主になっています。三和銀行の株を持っていたときに、三和銀行の行員が何か悪いことをすると代表訴訟を提起することができたんですが、今度持ち株会社になりましたので、できなくなりました。
住友銀行と三和銀行はしない。あるいは、日本生命は東京へ移転しろと。どういう圧力を掛けてきたか。その結果、東京に集中した。証券取引所も同様でございます。貿易取引も同様でございます。そういうことをまずやめようと。だから、ナショナルミニマムよりも地域マキシマムをいかに育てるかということが大事だろうと思うんですね。
大学は日本で学びましたが、その後、三和銀行という銀行に入りまして、銀行員生活を六年間送りました。その後、シアトルで見付けた本当に小さなコーヒーショップ、当時シアトルにも数店舗しかなかったんですが、これを日本で広めようと、味にほれ込みまして、日本でタリーズコーヒージャパンを創業しまして、約十年掛けて三百店舗以上の、日本におきましては大手のチェーン店に育て上げることができました。
○前原国務大臣 竹内委員は、先ほど御自身もおっしゃっておりましたけれども、三和銀行にお勤めをされていたということで、バンカーとして、金融の専門家でいらっしゃいます。その観点から、この資産査定、経営再建を金融機関にという御意見はあろうかと思います。
三和総研の研究誌の巻頭の対談集で、二十ページぐらいですか、やった。何で糸川さんと私が対談したか、伊藤副大臣は興味をお持ちだろうと思いますね。私の本を読んだある研究者が、私の考えていることと糸川さんの考えていることがどうも似ている、ロケット博士と農林水産省の中堅役人、なぜこの二人の意見が一致するのか、ぜひ対談してほしいといって対談したのがこれなんです。 見てください。
それから、UFJという意味では旧三和と旧東海ということになると思いますが、これは平成十三年ですよね。今役所からは、平成十五年から十八年分の調査対象の結果が合わせて九十九件ということでありますが、東京三菱について言えば、窓販が許可された平成十年から十四年までの間、検査はゼロだったんでしょうか。
三和総研、外務省の連合か知りませんけれども、あのころはとにかくはっきりしておりました。もうおっしゃるとおり。 それが変わってきましたのは、その河野外務大臣のときにシンガポールと初めてやったのは、農業がないからシンガポールでいいじゃないかといって、これは通産が考えた案なんですけれども、それに乗ったのが多分最初です。それから今日まで幾つか、チリだ何だ幾つか始まったんだと思います。
また、三和参考人より、定年退職後、元気な人が何もすることがないのは社会的損失であると感じ、NPO法人を立ち上げ、ボランティアとして地域の中で、何か世の中のためになればと地域活動を始めた、そのような報告もございました。 団塊の世代の方が定年を迎えられますが、まだまだお元気でもあり、そしてすばらしい経験も持っていらっしゃいます。
これがモビットとか三和ファイナンスもありますが、訳の分からないやみ金的な広告も一緒に出てくると。これで今被害者が出始めております。 実は、このアイニティプランニング、フィットウェブというのは、経済産業省、私はこの問題三月初めから追い掛けてきましたけども、今月の二十二日に特定商取法違反で業務停止を受けております。その理由は、表示義務違反と誇大広告というような理由で業務停止半年と三か月。
特に、事故を起こした森ビルとそれから回転ドアを造った三和タジマはもう全面的に協力をしてくれて、それで、その結果いろんなことが明らかになりました。 それで、回転ドアの事故があると、回転ドアだけをみんな調べようとしますが、それでは決して本当のことは見えないので、ドアと名が付くもの全部というものでやることにしました。