2002-10-22 第155回国会 衆議院 本会議 第3号
昭和四十八年、田中・ブレジネフ会談で、ソ連側がシベリアの天然資源の魅力とそれへの経済協力の利益を延々と説いたのに対し、田中総理は、シベリア開発のために来たのではない、自分が国民の期待を担っているのは北方四島の返還だと激しく主張されました。その結果、日ソ共同声明に「第二次大戦の時からの未解決の諸問題」との文言が織り込まれ、それが四島返還問題を含むことで合意したのです。
昭和四十八年、田中・ブレジネフ会談で、ソ連側がシベリアの天然資源の魅力とそれへの経済協力の利益を延々と説いたのに対し、田中総理は、シベリア開発のために来たのではない、自分が国民の期待を担っているのは北方四島の返還だと激しく主張されました。その結果、日ソ共同声明に「第二次大戦の時からの未解決の諸問題」との文言が織り込まれ、それが四島返還問題を含むことで合意したのです。
その帰属の、北方四島の帰属という意味は、一九七三年の田中・ブレジネフ会談のときの、あの四島はこれからの課題ですねと、そういう一九七三年の時点なんですか。それとも、いつの時点の四島の考え方なんですか。今の時点ではどんな北方領土の、要するに、我が国の方針というのは一体どういう方針なのかということがですね。 実は私、去年の五月に田中眞紀子前外務大臣にお聞きしたことがあるんですよ。
しからば、七三年の田中・ブレジネフ会談が原点だというならば、日本側も、そしてロシア側も、全く対応が変わってきたということは、これは事実として明らかなんですね。この私の認識は間違っておりますでしょうか。大臣、どうでしょう。
そこで、なぜ、田中大臣が、この七三年の田中・ブレジネフ会談が日ロ平和条約交渉の原点であると主張される、その意図は何か、教えてほしいんです。
それは、今田中大臣は、五六年、七三年、九三年、九八年、すべて説明も受けている、そして二〇〇一年三月のイルクーツクの話も説明を受けているということですからお尋ねするんですけれども、大臣は、就任の記者会見で、一九七三年の田中・ブレジネフ会談の成果、すなわち日ソ共同声明が日ロ関係の原点であるとの発言を、これは大臣就任以来、累次繰り返しておりますけれども、このことは田中大臣の対ロ政策の基本認識と考えてよろしゅうございますか
しかし一方では、外務大臣は、七三年の田中・ブレジネフ会談がこの北方四島の問題解決の原点であると、基本的なスタンスとしてこれをベースにして話し合いをしていくんだとおっしゃっております。
○益田洋介君 七三年のこの田中・ブレジネフ会談の結論は確かにおっしゃるとおり。しかし、二島を分けて話し合うということを言われなかった、四島全部が問題であると。それで、書記長はそのとおりだというふうに返答した。それが確認されたわけです。それが今状況が変わってきている、川奈会談から。この点についてはどうお考えですか。
その意味で私は、田中外務大臣の対ロシア政策、一九七三年の田中・ブレジネフ会談に同席されていたというふうに聞いております、私はそのときの会談をきちんとその冷戦の中で生かすべきだというふうに思っておりますが、そういう意味で私は外務大臣の見解をお聞きしたいわけです。もう一度どうぞ。
○国務大臣(田中眞紀子君) 時系列的に申し上げますけれども、一九五六年が日ソの共同宣言、そして一九六〇年が対日覚書というのがございまして、七三年が田中・ブレジネフ会談、九一年がゴルバチョフ大統領が訪日なさり、九三年にエリツィン大統領の訪日、それから九七年にクラスノヤルスクの合意がございまして、二〇〇一年が御指摘のイルクーツクの声明でございます。
○安住委員 私は、この問題は十分ぐらいでできないので、幾つかだけで、また時間を改めてとってじっくりやらせていただきますけれども、大臣が御就任のときに、田中・ブレジネフ会談、七三年ですか、あのときのやりとり。あのとき一緒に行かれたんですか。あのときは、要するにこういうことですね。未解決の問題が両国にあるということを認識するかということに対して、ブレジネフ書記長は、口頭でダーと答えたということですね。
これは田中・ブレジネフ会談で、田中総理が初めて、未解決の問題が領土問題である、これを確認させました。そして、領土とは四島であると、二度にわたって周到にブレジネフ書記長に確認させたわけでございます。次に、九一年の四月のゴルバチョフの訪日に際して、海部・ゴルバチョフコミュニケが出され、解決されるべき領土問題の対象とは北方領土四島であり、四島の日本名である国後、択捉、歯舞、色丹は明記したわけであります。
○岡田(利)委員 一九七三年、田中・ブレジネフ会談が行われておりますね。日ソ間の経済協力の問題について大きなプロジェクトがそれぞれ設置をされたわけです。そのうちの一つとしてサハリン石油、天然ガスの大陸棚資源開発の協定が行われて、我が国からも、私の記憶では当時二百四十億程度既に投資がされている、こう承知をしておるわけです。
従来の日ソ間の交渉の中において国後、択捉を含む北方四島が日ソ間の戦後処理の問題としての領土問題の対象であることについては、一九七三年の田中・ブレジネフ会談の際に作成された共同声明の中で「第二次大戦の時からの未解決の諸問題」との文言について、口頭でこれに四島の問題が含まれることが確認された経緯がありましたが、右口頭確認の事実すらもソ連側はその後否定するに至っておりました。
○兵藤政府委員 一九六〇年のいわゆるグロムイコ対日覚書という一つの例を考えますと、まさに肯定、否定の解釈は相分かれるわけでございますけれども、私は、一九六〇年以降のいろいろな、例えば首脳レベルの会談、田中・ブレジネフ会談でございますが、例えばこの会談の評価というものでございます。これはそれほど日ソの間で乖離があるというふうには私は考えないわけでございます。
例えば田中・ブレジネフ会談でございますとか、このときに口頭で四島が確認されたという経緯があったことは御承知のとおりでございますが、それも含めまして、さらには、ゴルバチョフ時代に入りまして外相レベル間の平和条約締結交渉あるいは七回にわたりました日ソ平和条約作業グループのいろいろな議論ということも、当然この中に入ると考えておるわけでございます。
一、従来の日ソ間の交渉の中において国後、択捉を含む北方四島が日ソ間の戦後処理の問題としての領土問題の対象であることについては、一九七三年の田中・ブレジネフ会談の際に作成された共同声明の中で「第二次大戦の時からの未解決の諸問題」との文言について、口頭でこれに「四島の問題が含まれる」ことが確認された経緯がありましたが、右口頭確認の事実すらもソ連側はその後否定するに至っていました。
私は、この三十五年の間の日ソ間の話し合いの山場というのは、一九七三年の田中・ブレジネフ会談だろうと思います。日ソ共同宣言からちょうど十七年目なんですね。この田中・ブレジネフ共同声明から今日ゴルバチョフ大統領が訪問する年は十八年目で、ちょうど中間に位置いたしておるわけです。
これは田中・ブレジネフ会談のときのあれも戦後未解決の問題と言っておったわけでありますが、これは調整しなければならぬ。それは日ソの経済協力も含めての問題になってくるわけでありますけれども、エリツィン氏とゴルバチョフ──ゴルバチョフ氏は中間派のスタンスをとっているわけでして、プリマコフなどは国益派というか、そういうことで評価もできるだろうと思うのです。
昔、田中・ブレジネフ会談のときに、問題ありますねと言ったら、向こうが、うんと返事をした。後になってみたらそれはブレジネフのせきだった。そんなことは言っていないんだ、ゴホンとせきをしただけだというようなことを後で言ったとか言わないとかいう話もあるそうでありますけれども、現在、各レベルでいろんな人が言っておる。 我々は、四島一括返還という大前提のもとに日ソの領土問題を含めた真の平和条約を結ぶ。
一九七〇年代の日中国交回復との絡み及び当時の第一次デタントと言われる国際緊張緩和の情勢において田中・ブレジネフ会談が行われて、その中でブレジネフの方から、未解決の問題を解決して平和条約を締結する必要があるという中に、この未解決の問題の中に四島の問題が含まれるということを口頭で田中総理に対して確認したという時代がございました。
○宇野国務大臣 領土問題に関しましては、田中・ブレジネフ会談において当時の田中総理から、戦後未処理の案件が日ソ間にはある、その中に北方四島問題があるということについてはブレジネフ書記長は御承知であろうな、こういう質問をなさっております。
やっと田中・ブレジネフ会談においては、そういう問題はまだ未解決のものがありますよということに対して、ブレジネフ最高指導者がヤー・ズナーユと言われた、もうそこまでだということでございますから、今私がここで、返った場合にはこうする、ああするということを言わなくても、これは固有の領土として我々は考えていかなくてはならない、しかも、そこには一九四五年までは立派に我々日本人が多く住んでおられまして生業を得ておられたということ
当然、定期協議が終わった後、共同コミュニケなり共同声明なりが発表されると思うのでありますけれども、この中に、北方領土問題については未解決の問題である、先ほど同僚議員の質問に対し大臣は、いわゆる田中・ブレジネフ会談まで戻したい、こういう答弁もありましたけれども、私は今回の会談こそそのことが一番大事ではないかと思うのであります。その点につきましての大臣のお考えと御決意をお尋ねいたしたいと思います。
また、これも御承知のとおりでございますけれども、七三年の田中総理とブレジネフ会談の結果におきましても、「第二次大戦の時からの未解決の諸問題を解決して平和条約を締結する」ということが共同声明で規定されており、かつ、その北方四島の問題につきましては、未解決の諸問題の中に入るという口頭了解が両首脳間で確認されておるわけでございます。
いわゆる田中・ブレジネフ会談で共同声明を出しました。その中には歯舞、色丹、国後、択捉という名前はなくなっちゃった。田中総理は、当時、帰ってきてこの国会で、戦後未解決の諸問題はという中にこの歯舞、色丹、国後、択捉は入っているんだ、そのことはちゃんとブレジネフとも確認をしているということを報告しているわけです。
○国務大臣(宇野宗佑君) 田中・ブレジネフ会談、ちょうど私、その当時自民党の副幹事長をしていました。田中総理がお帰りになった日にお出迎えして、そして自民党本部で直接お話を伺った一員でございます。
もう一点は、七三年の田中・ブレジネフ会談の共同声明でよく引用されていることは、戦後未解決の問題云々がありますね。その中には領土問題を含むという解釈を口頭で日本側が言ったら、はいそのとおりですと相手は答えた。それは、外務省が出している「われらの北方領土」というものでも言っているし、しばしばこの北方問題を論議をするときオウム返しに返ってきますね。
○政府委員(斉藤邦彦君) ただいま大臣から申し上げましたことを若干敷衍して御説明させていただきたいと思いますが、昭和四十八年の田中・ブレジネフ会談において先ほど大臣が御説明しましたような合意があったことは御承知のとおりでございますが、その後数年を経まして、そのような合意があったにもかかわらずソ連側は、領土問題は解決済みであるという態度をとるに至ったわけでございます。
○柳澤錬造君 私が聞いているのは、その四十八年の田中・ブレジネフ会談に対する認識が日本政府とソ連政府で違うんです、何でそれを外交ルートできちんとしないんですかということを七年前に聞いている。今までの事実経過を言っているだけじゃないですか。その違う点を何であれしないんですか。
○柳澤錬造君 そこで、外務大臣にお聞きするんですけれども、あれは四十七年ですか、当時の田中総理が行かれて、田中・ブレジネフ会談。その後帰られて、当時の田中総理は未解決の諸問題という中に歯舞、色丹、国後、択捉が入っているんだということをブレジネフがちゃんと確認したということを国会で答弁された。