1956-07-21 第24回国会 衆議院 海外同胞引揚及び遺家族援護に関する調査特別委員会 第16号
それからウズベック州のアンデッシャンのチューモア収容所の保養所——その当時身体が痛めつけられましたので、そこで保養しまして、翌年の四月にやはりウズベック州のコカンドー収容所に移りました。やはり重労働をいたしまして、昭和二十四年にハバロフスク地区に参りました。ここでは大体私は年令も相当ふえておりましたので、重労働はいたしませんでした。
それからウズベック州のアンデッシャンのチューモア収容所の保養所——その当時身体が痛めつけられましたので、そこで保養しまして、翌年の四月にやはりウズベック州のコカンドー収容所に移りました。やはり重労働をいたしまして、昭和二十四年にハバロフスク地区に参りました。ここでは大体私は年令も相当ふえておりましたので、重労働はいたしませんでした。
それでソ連においては、また作業をやつておるときも、向うはウズベック共和国でマホメット教が多いわけです。マホメット教の人たちもみな礼拜をやつております。それでこの国は、宗教はこんなに自由なのかなあとだんだん思うようになつて来たわけです。
それであるときソ軍の偉いお方——偉いお方といつても、ピテゴロスキー大佐というウズベック管下における内務省の政治部長をやつておられる方が收容所生活を見に来られた、この收容所生活についてのいろいろな報告がなされたのです。民主運動も非常によくできているし、またあらゆる方面に生殖全く上つている、いろいろと話があつたわけです。
○相原証人 私がおりましたペグワードにおいてはウズベック人がおりました。それでウスペック人自体の宗教はマホメット教です。そのマホメット教を信じておる人は会堂もありますし、僧侶の人たちもおりますし、また今度タシケント、あるいはほかの大きな町に来たときにはハリストス、いわゆる正教の教会もありまして、礼拜も行われております。
ウズベックのベグワードというのは、タシケントから約八十キロないし九十キロの地点であります。それで二百八十八収容所の第二分所という所に着いたのであります。その第二分所には、その当時まだドイツ人が若干おりました。その分所はわれわれが来たためにドイツ人が移動をいたしました。そうしてそのあいた兵舎にわれわれは収容されたのであります。
○証人(小島清君) 入ソ後二十年の十月、これはウズベックのタシケント第一收容所であります。それから二十一年の四月タシケントの第十收容所、コルホーズの方であります。それから二十一年の九月に第一收容所に帰りました。それから二十二年の八月タシケントの第五收容所に転属しました。
そして我々抑留者や全職関係者は、あちらこちらもウズベック共和国の隅から隅を奴隷のごとく取扱われて転々と移動して来たので駈ります。その間大勢の患者を出して行つた。そうして移動の度に煙草やその他の当然配給を受けるべき金までも搾取されて行つたのであります。
○中野重治君 あなたの腹の傷というものはウズベックにおられたときですか、その他におられたときですか。
一九四五年十月十九日、これは中央アジア、ウズベック共和国の首府タシケント東方約百キロの地点にあるところの小さな炭鉱町でありますアングレンに入りました。で私はそのアングレンに約三年半おりました。