1950-04-29 第7回国会 参議院 在外同胞引揚問題に関する特別委員会 第22号
○証人(與儀宅正君) この在留邦人の女の方は、私は直接にその收容所に行きませんので、山から下りて来た我々と同じくこつちへ還つて来ました引揚者の書類の場合によつて私が申上げます。女の方が凡そマガタン地区で五十名内外と言われております。はつきりした人員を報告しておりません。それから男の方が二百五十名と言われております。約三百名の人であります。それから帰国するためにマガタンに飛行機で集結した邦人の中に八名
○証人(與儀宅正君) この在留邦人の女の方は、私は直接にその收容所に行きませんので、山から下りて来た我々と同じくこつちへ還つて来ました引揚者の書類の場合によつて私が申上げます。女の方が凡そマガタン地区で五十名内外と言われております。はつきりした人員を報告しておりません。それから男の方が二百五十名と言われております。約三百名の人であります。それから帰国するためにマガタンに飛行機で集結した邦人の中に八名
○証人(與儀宅正君) そうです。金山の方です。それから六百、四百と殆んど炭鉱地帯の囚人グループへと彼らは移動されたのであります。私は当時マガタンにおりまして囚人かを聞きましてその位置を分つたのであります。それから残つたところのその外の幹部の方々は、当時の山田、佐々木イズム打倒の反動闘争の下に、この山田、佐々木イズムの作業所であるところの当時のアクチーブ……当時はアクチーブとはいいません、指導者は呼んでおりました
○証人(與儀宅正君) 私はこの度全国民の熱誠溢るる嘆願と、又委員会の熱心なる活躍と、進駐軍の情けあるところの交渉によりまして、私はこの度喜びの日を迎えたのであります。丁度私がこの帰国の命令を受けたのは、マガタン市第一刑務所の六号に留置されておりました。還るためにハバロフスクに飛行機で輸送されました。約六十名の人員が三回に分たれまして飛行機で運ばれ、その後又追加となつた邦人団が三回程に運ばれました。この