1952-03-20 第13回国会 衆議院 内閣委員会 第7号
精密ないろいろな審議は相当ひまがかかるかもしれませんが、その間に暫定的な処置でも講じて、できれば追加予算を提出するというようなことも必要じやないかと思うのですが、ことに恩給受給者の中ですでに相当老境に入つている人たち——何年以上というふうにはつきりと私今案があるわけじやありませんが、たとえば五十五歳から以上くらいの人、ことに第二次大戦のときの軍人その他でなくて実は日露戦争ごろからの生残りの人たちもあるわけなんです
精密ないろいろな審議は相当ひまがかかるかもしれませんが、その間に暫定的な処置でも講じて、できれば追加予算を提出するというようなことも必要じやないかと思うのですが、ことに恩給受給者の中ですでに相当老境に入つている人たち——何年以上というふうにはつきりと私今案があるわけじやありませんが、たとえば五十五歳から以上くらいの人、ことに第二次大戦のときの軍人その他でなくて実は日露戦争ごろからの生残りの人たちもあるわけなんです
日露戦争のときなどは戦死者の子供の授業料は払わなくても済んだわけですね。ところで今度遺家族大会等がありまして、中央でも地方でも、お父さんが死んで家が貧しいので、上の学校に行けないというような涙ぐましい声が、遺兒の皆さんから訴えられている。そこで今小学校の方はPTAの会費というものが非常に多い。
曾つて日露戦争ですか、日清戦争ですか、仁川において砲声一発したときに、宣戦布告の前か後かによつて、仁川砲撃の時が戦争開始か、宣戦布告の時が戦争開始かという問題を国際法上残しておることもあるでしよう。或いはセルビアにおいてピストルを撃つたときに、そのときに欧洲大戦が始まつたのか、或いはドイツがベルギーあたりに侵入したときに戦争が始まつたのか、そういうような問題を生ずるのではないでしようか。
興業銀行は主として外国から資金の供給を仰いで、日露戦争後における疲弊した日本の産業を立て直すために外資を導入した、そのときにおける條件というものは、外国から入つて来る資本は一括して興業銀行が借り受けました。これに対して政府は元利支拂いの保証をいたしました。同時にその興業銀行が各個別の産業に投資する條件は、興業銀行の自主的な判断にまかされた。
あと四、五分よりございませんので、若干老兵の問題がございまするが、これは戦争犠牲者というものと、直接のつながりはございませんけれども、たとえば日露戦争時代の老兵が、片一方は追放にまでなつた文官が恩給法上復活してただちに恩給をもらうのと、いかにも公平の原則に反すると思うのでありますが、特に何歳以上というふうに、五十五歳あるいは六十歳、七十歳と、こういう年齢に限つてでも、同時にこの遺家族戰争犠牲者の問題
ところが日露戦争を契機にいたしまして、我が国が強国として登場いたしますや否や、アメリカの対日政策は一変いたしまして、如何にして日本を抑制するかということがアメリカの政策となつたわけであります。先ずその第一番目は、一八九九年にとられましたところの(「御質問願います」と呼ぶ者あり)ジヨン・ヘイの門戸開放の宣言であります。
国は、日清戦争、日露戦争また太平洋戦争に至るまで、日本の国の発展をするがために、侵略的な戦争を行つて参つたものであります。そこで終戦後における画期的な漁業法の制定ということは、すなわち日本の漁民を民主的な漁業の方針に進めて行かなければならないというのが骨子であるのであります。しかして日本の国民であつたならば、日本の沿岸はどこに行つて漁業をやつてもさしつかえないというのが、漁業法の精神であります。
どうか右の事情をお酌み取り下さいまして、鮮満間は、明治三十九年の日清、日露戦争以来同一経済ブロツクの中にあつたのでございますから、ただ引揚に際しての預り金に対してそういう差別をされないように、よろしく従来の関係に鑑みて、鮮満間平等の一対一の率に是正されますことを強いてお願いいたします。 この三の五万円以上で打切るということにつきましても、私どもは一カ年三カ月籠城をいたしました。
なかんずく樺太の問題でありますが、領土の詳細の点は同僚諸君に譲りまして、樺太の問題は、日露戦争以後初めて日本の領土となつたものではない。これは歴史によつて明瞭であります。突は樺太全島というものは、すでに十七世紀以、来日本人が発見上、開拓しておつたものである。それに遅れて極東に入つて来たところの当時のロシヤが、一八七五年に日本からこれを奪い取つたものであると私は解釈するのであります。
日露戦争当時におけるわれわれの祖父は、戦争に勝つていろいろなものを、あるいは領土を、あるいは大連をとつたけれども、なおかつ不満として日比谷の焼討ち、その他の大問題を爆発したことをわれわれは少年ながら記憶をしておる。敗戦国なるがゆえに思う存分のことは言い得ないでしよう。
(拍手)元帥は、日露戦争中、父君のマツカーサー将軍と共に日本を訪問せられて以来、我が国に対し非常の関心を寄せられ、元帥の日本国情に対する造詣蘊蓄が日本国家の礎石は一に皇室にあることを洞察せられ、我が皇室に対上非常の注意と用意をいたされたることは、元帥の対日識見のたまものであることは明白であるのであります。
太平洋戦争のときにも、たびたび交通が杜絶したこともありますし、日露戦争のときには、あの津軽海峡に一隻の軍艦が通つたばかりに、七日以上も交通が杜絶しております。流言飛語はこれは当然起きて来るのでありますが、そういうような問題が非常にたくさんあるのであります。
最初相続税が戦時の補完税として設けらいたのは、たしか日露戦争のときであつたとただいま記憶しておりますが、そのときには課税の方針はいわゆる恩情主義と申しますか、おおむね人生最大の不幸、当時家の制度がありまして、家督相続人の死亡、家督者の死亡、戸主の死亡、親の死亡、こういうことが中心になりまして、家の最大不幸のときに課税する税でありますので、わかりやすい言葉で申せば、きわめて恩情をもつて、できるだけ負担
そこで今おつしやつた相手は日の丸だというのは、かつての旧憲法時代、あなた方おわかりにならないでしようけれども、日清戰争、日露戦争の時分には、親方日の丸だと言つた、それから出て来ておる。日露戦争のときなんかみな相当やつておるが、当時悪いことをやつたものはあがつておる、はなはだしいのはカン詰に石を入れておる。これに農林省とか各官庁とのつながりがあつたのです。
日露戦争におきましても、敵将に帶劍を許した乃木大将の崇高な行為は、各国でこれを認め、またそういうふうにやることか文明国の態度でなければならぬと思うのであります。しかるにわれわれが新聞紙上等で承知いたしますところによれは、この点がソビエトては少しも守られておらない、死亡者が非常に多い、病人に対しても手当をしておらない。
しかも中国のごときは日清戦争、日露戦争、今回の世界戦争と何十年も中国には迷惑をかけておる。その中国ですらも戰争が終りましたら、戰争は終つた、日本の兵隊に何の罪があるかと言つて帰したじやないですか。しかるにソビエトひとりだけが四年も五年も帰さないという行動を、あなたはいろいろな言葉おをもつてはつきりそれは遺憾なことであると言えないというならば、あなたはそれでも日本人なんですか。
○政府委員(平田左武郎君) 現在の馬匹去勢法が、一種の官行去勢の制度を採用いたしておりまする、主たる理由は、いろいろ、前回に提案理由として述べられましたところによりましても御承知かと思いまするけれども、丁度日露戦争の前後におきまして、軍馬の徴用を主たる事情といたしまして、明治三十四年に法律ができたのでございまするが、この法律自体を直ちに実施するということは、いろいろ実情にそぐわんというようなこともありまして