2004-03-31 第159回国会 衆議院 外務委員会 第10号
さらに、昭和三十一年七月五日付で、吉田ドミニカ公使から当時の重光外務大臣にあてて電報が打たれております。その電報には、ドミニカ第一次移住者に関する件として、七月五日付の往信返簡をもって第一次移住に関する公文を終わったという記述がありますが、これはどのような解釈をすればいいのかということをお教えいただきたいと思います。
さらに、昭和三十一年七月五日付で、吉田ドミニカ公使から当時の重光外務大臣にあてて電報が打たれております。その電報には、ドミニカ第一次移住者に関する件として、七月五日付の往信返簡をもって第一次移住に関する公文を終わったという記述がありますが、これはどのような解釈をすればいいのかということをお教えいただきたいと思います。
さらに、昭和三十一年十月二十七日、吉田公使から重光外務大臣にあてて「病虫害対策に関し、我方募集要綱にはドミニカ政府の負担において殺虫対策が講ぜられる旨記されてあるが、」云々。 これはもう無数に外務省がこの募集要項作成に携わったというふうに公文書で明らかでありますけれども、募集要項の作成者は外務省ですか、海協連ですか。
昭和三十一年三月、ドミニカに、在ドミニカ吉田大使から重光外務大臣に書簡が来ている。何と書いていますか。細目の点で若干の不満はあっても、大局的見地によりこれをのんで、ひたすら実施の方を推進することといたしたくと。要するにひたすら実施したいと思っていたんですよ、あなたたちは。だから無理やり急いで協定もないのにやったんでしょう、認めなさい。
例えば、終戦のときに、ミズーリ号という、東京湾で、いわゆる連合国に対して日本の重光葵全権大使、全権がサインをされた、その頭の上に飾ってあった星条旗のことを皆さん御存じでしょうか。これは、実は、ペルリが日本に一八五三年に来たときにあの黒船にかけていた星条旗をかけていたんですね。
そして、重光さん、幣原さんの言葉、前にも引用したんですけれども、あの戦争の体験、特に原子爆弾の体験の中から、我々はもう二度と戦争をしてはならないと思う。だから、ここでそれを憲法に入れるんだと、マッカーサーのところへ行ってそのことも表明をされたということが、マッカーサー自身の上院の証言で残っておりますね。
例えば、団藤重光先生という、東京大学で長く刑事法を講じまして、その後最高裁判事にもなられた方ですが、その方が「法学入門」という本を著しておられます。その中で、制定法の解釈ということで、法の規定の奥にあるものとしてまず考えられるのは、法律をつくった立案者の意思である。
そうじゃなくて、先ほど法務省が名前を挙げた団藤重光さんが裁判官をやっていた時期に、最高裁で、これは一九八三年ですけれども、あさひ保育園事件というのがありまして、この中で、人員整理がやむを得ない事情などを説明して協力を求める努力を一切しなかったということで、解雇権の濫用として無効になった裁判があるんですけれども、これについては、最高裁が整理解雇をめぐる労働者の権利を守ったというところまで評価されているんです
私は、国連に入る直前に、一九五六年十二月十八日でしたけれども、重光外相の国連加盟演説を聞いておったわけでありますけれども、そのことについて私が岩波新書に書いた一節をちょっと読ませていただければと思います。 重光演説が人を感動させたのは、それが戦後日本人の精神史をしっかり踏まえて大胆かつ率直に国連に対処する日本の立場を訴えたためだと思う。
そして、その下にあります旭日大綬章とか旭日重光章という、こういう各勲章の固有の名称で表示するということになります。 それからもう一つ、勲章のランクでございますが、現在は旭日章と瑞宝章というものがございまして、これはもうすべてランクが違うんです。現在十二段階ということになっておりますが、これは煩雑で、かつ細分化され過ぎていると、こういうようなことで、簡素化をしようということになりました。
例えば、団藤重光元最高判事はこのように言っております。新憲法は、人身の自由の保障のために多くの規定を設けた、それは第十八世紀末の憲法であるかのような錯覚を我々に与える、しかしそういう憲法を必要とするのが我々の現在の社会状態であることを考えなければならないのであるということでございます。 日本国憲法の刑事人権に関するこのような豊富な規定の登場は、殊更、刑事訴訟法に影響を及ぼしました。
「死刑廃止論」を著した方で有名な最高裁判事だった団藤重光さんがインタビューに答えて言っているんです。この波崎事件の上告棄却のときにいろいろ迷った、裁判長が上告棄却の宣告をして退廷をしかけたときに、傍聴席から人殺しという罵声を浴びた、やはり、本当は無実だったのかもしれないと、私はこの瞬間決定的な死刑廃止論者になったということを、今から十年前にインタビューに答えていらっしゃるんです。
その編集委員なんかを見ると、宮沢俊義であるとか団藤重光先生であるとか、私から見ると何か神々の時代の方々が著作されているんです。
団藤重光先生の本を読みますと、平安時代は二百何十年、日本は死刑がなかったと。それから、アジアにおきましても、カンボジアは最近死刑を廃止いたしました。ジェノサイド、集団虐殺があった国だからこそというべきか、であるにもかかわらずというべきかわかりませんが、カンボジアは死刑を廃止いたしました。
小学校五年修了で中学校へ、中学校四修で高校へ進んだ有名人には、刑法の団藤重光さん、民族学の梅棹忠夫さん等がおられます。また、中学校四修で高校へ入学した人々の中には中曽根元首相であるとか、宮澤喜一元首相、宮本顕治さん、不破哲三さん、私たちは上田建二郎さんと申していますが不破哲三さん、それからノーベル賞の湯川秀樹先生、福井謙一先生、江崎玲於奈さん等々がおられます。
それから外務省との関係でいうと、外交問題であるにもかかわらず、重光外務大臣は蚊帳の外だったという状況がかなり続いていたと私は新聞記者として承知しております。そういう変則的な始まり方をした、それでわずかな時間に五六年共同宣言に到達しているわけで、私はしたがって、日本側のコンセンサスが、しかも政府・与党側のコンセンサスが十分でなかったのではないかということをずっと感じております。
やはりあの方は重光さんと一緒に上海で爆弾を投げられて、重光さんは足を失い、野村さんは片目失われて独眼竜なんですね。実は私の中学のときの校長に当たる方なんですが、この方が軍人であり、そして戦前のそういう経験の中から九条を支持しておられる。これはやはり大変我々参考にすべきじゃないかと思います。
しかも、外交担当の重光外務大臣は、この日ソ交渉、国交回復を進めるということから全く除外されていた、こういう異常の中で行われたということがその後、後々まで尾を引いているんじゃないか。
それは、例えば、ニュースでも皆さんもさんざんごらんになったでしょうけれども、あのミズーリ号の甲板で、日本の代表団が、丸腰になった将軍たちも行き、重光外相もシルクハットをかぶってあそこに行って調印した。あの調印文書は何かというと、ポツダム宣言を受諾するという書類に調印したのです。
きのうもこの参考の本を読んでおりまして、団藤重光先生、森田宗一元家裁判事の「新版少年法第二版」と言うんですが、これを見ていましたら、はあと思ったんですが、「新版のはしがき」のところでこういうのもあるんですね。これなんかはもう少年保護関係者がいわばいつも手元に置いていなければ審判できないという、そういう重要な本だと思っておるんです。
一方、あっせん収賄罪におきましても、これは通説と言われる団藤重光先生の考え方でいきますと、公務員の職務行為の不可買収性なんという、つまり買収することがべからず、買収できないよという意味なんというのも日常使われる言葉ではないんですけれども、要はお金で公務員の行為を評価したり買ってはいけないというようなことだろうと思います。
元最高裁判事で我が国刑法学会の重鎮である団藤重光教授は、二十一世紀はすぐそこまで来ている、次の世紀を担う子供たちをどう育てていくのかを真剣に考えなければならない、政治家は、多方面の専門家の意見に耳を傾け、未来の理想を考えるべきときです、社会的な調査もきちんとやらず、近視眼的な視野、見識で少年法の改正を急いで強行するとすれば、まさしく次代に恥ずべき世紀の恥辱と言わねばならないと、こう述べられています。