1950-05-02 第7回国会 参議院 内閣委員会 第30号
併し只今お話の通りに收容所が狹いために非常な不便があるというような点は、今回の増の分を配置される拘置所の拡張と申しますか、そのために幾分緩和されて行くのではないかと存じます。更に今後の問題については十分研究いたしたいと存じます。
併し只今お話の通りに收容所が狹いために非常な不便があるというような点は、今回の増の分を配置される拘置所の拡張と申しますか、そのために幾分緩和されて行くのではないかと存じます。更に今後の問題については十分研究いたしたいと存じます。
○国務大臣(本多市郎君) この拘置所なり、收容所につきましては、全く予測せざる何か大量の收容が一時に殖えましたということがありますれば、そのときには考えなければならんと存じますが、大体において今回四百五十名ばかりの定員を配置し、そうして拘置所の落成した面に收容するということで、これで維持して行くことができるのではないかと存じております。
ある收容所におきましては二月の間に一割六分が死んでいるということもありますし、はなはだしいところは千名くらいおつたうち約六百名死んだというようなところもあるのであります。
整備拡充に関する請願(委員長報告) 第九四 戰争犠牲者遺族年金制度創設に関する請願(委員長報告) 第九五 恩給等受給者の未復員者給與法適用に関する請願(二件)(委員長報告) 第九六 健康保險制度の擁護および外来患者の保護に関する請願(委員長報告) 第九七 インターン採用方法の民主化に関する請願(委員長報告) 第九八 生活保護者住宅の建築に関する請願(委員長報告) 第九九 行路病人、浮浪者の收容所設置
昭和二十四年九月十五日、カラカンダ收容所第九分所において、政治将校ニルマーラエフ上級中尉か質問に対する答えとして語つたことが同人によつて次のように通訳されたのであります。すなわちいつ諸君が帰れるか、それは諸君自身にかかつている。諸君がここで良心的に労働し、真正の民主主義者になるとき、そのとき諸君は帰れるのである。
しかも收容所にあてるか、收容所内の日本人捕虜個人にあてるかという問題につきましては、相当これに重要な意味がありますので、この「收容所」を「收容者に宛てて」と修正をしたいと思います。 さて次に六行目てありますが「亀沢富男君の証言によつて明かとなつた。」この「明か」の上に「ほぼ」をつけて「ほぼ明かとなつた」と修正をいたしたいのであります。
第二枚目の最初の三行目「一、昭和廿三年五月ウオロシロフ地区の收容所に宛て、徳田書記長の名て、万国赤十字社発行の往復はがきの返信紙に「お元気にてソ同盟強化のため遇進され、りつぱな斗士として帰国され、反動に対して共に斗う日の来ることをお待ちいたしております」旨の片仮名の通信が寄せられたことは亀沢富男君の証言によつて明かとなつたところであります。」これを削除する。この削除の理由を説明いたします。
○証人(與儀宅正君) この在留邦人の女の方は、私は直接にその收容所に行きませんので、山から下りて来た我々と同じくこつちへ還つて来ました引揚者の書類の場合によつて私が申上げます。女の方が凡そマガタン地区で五十名内外と言われております。はつきりした人員を報告しておりません。それから男の方が二百五十名と言われております。約三百名の人であります。
それでは次に田邊証人にお尋ねしますが、先ず第一にお聽きしたいのは、あなたはナホトカから帰られる前に、ハバロフスクの收容所はどこにおられましたか。二分所ですか、五分所ですか。
○委員長(岡元義人君) 尚この写真について一二点伺つておきたいと思いますが、これはソ連側のいわゆる收容所の人達は立会つておりますか。
又今回の信濃丸帰還者によつて、尚各地收容所に残されておる者は、生存者氏名の判明せるものだけでも四千百四十名以上に達しており、而もこの中には三百二十名の女性を含んでおるのであります。
私と十人、一級反動として軍事捕虜收容所十一分所から二十收容所へ送られました。うち私外二名、三名しか帰つて来ておりません。あと七名の人間はまだ残つていると思います。そういう例は外の地区においても相当あつたと思います。終ります。
ここのラーゲルの特質から申上げますと、この收容所はハバロフスクの監獄に近い收容所であります。
○委員長(岡元義人君) 次は、杉本証人に伺いますが、杉本証人は非常に沢山の收容所を変つておられる。その收容所の中でシリギンダという收容所があります。これは今までこの委員会におきまして出ていなかつた名前の收容所であります。このシリギンダ收容所というのはどの地区にあつて、そうしてどのような現在状態にあるのか、幾ら程残つておるのか、この点について一応証言を求めたいのであります。
将官はハバロフスクの四十五特別收容所というところて、外部とは全然隔絶した状態で五年間生活を続けられたということであります。向うでの待遇も特別の待遇を受けておられたようであります。船に乗るまで向うの将官としての肩章もつけておられたというお話でございます。
かようなことてありまして、收容所につきましても、一定の大きさの施設に、收容守る人数を限つて衛生上書かないように、適当な收容所をつくらなければならぬ。また寒い時においては、寒くないように、衣服等も相当のものを與えなければならぬ。これは戰時国際法に規定するところてありまして、当然行わるべきはずであります。
○石田(一)委員 ただいまの質問に関連するのですが、たとえばソ連の收容所から日本に帰還する帰還者の数とか、あるいは今後帰還する人々の思想的傾向等があらかじめ駐日ソ連の代表あたりから共産党に対して通信される、あるいは報告されるということはありませんか。
それから手紙を收容所あてに出しているといいますけれども、收容所あてには出せません。御承知の通りすべて赤十字から来ますものは、往復はがきでありまして、こちらはロシヤ語は書けませんから、向うからちやんとここに出してくれといつてロシヤ語は書いてある。それを出すのですから、收容所あてということはあり得ない。そういうことからしまして、こういうことに対して私の責任を感ずべき何ものもないと考える次第であります。
收容所に三百何人しか入れなかつたというが、あなたは見て来ましたか。
この受刑者の中で特に注意しなければなりませんことは、先達てこの委員会で問題になりました菅証人、自殺いたしました菅証人等と一緒におりました地下工作員等が関東軍罪惡史というものを編纂するという名目の下に、各收容所における抑留者に懴悔録を書かせまして、その懴悔録を書いた者から順次日本に帰す、このようないわゆる甘言を以て署名させました。
羅災者中の相当数が縁故先あるいは寄寓先等の見込みがまつたくない状態にありまして、調査当日現在におきまして、これが該当者数は七十五世帯、三百五十名の多きに達しており、市当局といたしましても、これら罹災者の收容所として、学校二、寺院四、青年会館、民生寮等三、計九箇所の施設を利用いたしまして、分散的にこれらの人々を收容いたしておりますが、これらの收容施設といたしましても、恒久的のものでなく、臨時的に收容所
従つてかかる收容所に收されておる患者の大部分というものは、さらに自費をもつてその栄養を補つて行かなければならぬのでありますが、ただいま申しましたように、いずれもあまり生活にゆたかでない人々が多いのでございますので、結局は思うような栄養がとれない。従つて結核の治療も思うように行かない。従つて治療も遅れて、再起して国家の経済再建に寄與することができなくなるという現状にあるのであります。
そういうわけでありますから、今の罹災民の收容所等につきまして、大邸宅や大旅館等を開放して行かれるお気持があるかどうか、この点を提案者にお伺いしたいのであります。
○加藤証人 それは收容所が違うから、その当時においてはわれわれの関知したところではありません。私自体としては関知したところでありません。それをうわさに聞いたのは、われわれが舞鶴に来て、ごたごた騒がない前からその話はうわさに聞いておりました。そういうような話は、われわれの收容所の中にも盛んと伝わるわけです。反動は帰さないんだという問題、それはどこの收容所でも言つておるわけです。
しかしこれは收容所が違います。第九收容所に入つて来たと思います。これは千名くらいたしか入つて来たのじやないかと思います。
收容所も十くらいわかれております。その中で收容所と収容所の関係もありませんし、われわれの收容所は大体一割五分くらい死んだというようなくらいで、実際の統計はわかりません。
○石田(一)委員 今あなたのお言葉では、收容所にいて全然労働につかない、こういう人たちが主になつて日の丸梯団をつくつておるというお話ですが、ソ連の收容所ではノルマが與えられて、それを全然実行しない、仕事もしない、こういう人たちに対する待遇はどういう待遇ですか。
○板垣証人 昭和二十年三月に士官学校を卒業、北鮮の第十一教育飛行隊付、八月に停職一十一月に入ソ、ヨーロッパのタタール第九十七收容所、エラブカ、そこに四八年の七月。ハバロフスク收容所、今年の一月帰国。
それから満洲国の官吏ですし、その後新しい特別な收容所になつてから、人の名前は出したくないのですが、一九四八年九月二十七日ごろ、新しい特別の收容所ができまして、そうしてその收容所に憲兵、警察官、協和会、特務機関、容疑者、こういうものが入つた收容所にコカウントからいわゆる地方人の方、抑留者の方が来たわけです。
併しながら我々といたしましてはそういうような庶民の住宅、特にボーダーラインの程度にありまする者に対しまするところの收容所というものにつきましては相当考えなければならんのじやないかというふうに考えておるのでありまして、これらにつきましてはできる限り努力牽いたして参りたいと思つて為ります。併し現状はそういう実情でございますので、その方面に十分な手が伸びてないというような状況でございます。
○高山証人 私の関係した收容所でありませんから、私にはわかりません。
○高山証人 ソビエトでは、急にけがをした者以外は、大体病院あるいは收容所にある——收容所にはりつぱな衛生施設というものがありますので、そこの中に收容しております。收容所において動けないような者が作業する、また病気で動けない者か收容所におるということ自体が、全然デマです。ちやんと收容所内の医務室、あるいは病院に收容されておつた者にわれわれは考える。
○矢浪証人 二百二十八收容所というのはどこですか。
○矢浪証人 それは収容所といつてもいろいろな收容所がありますから、例は幾つもとることができますが、ハバロフスク地方で言えば、たとえばライチハの收容所で、ここなどは炭鉱の労働でございますが、非常に生活條件もよく、さらに……
○宇野証人 私は收容所に行くときに引率してはおりません。
タシケントの收容所でどういうことをしておられたか。きのう、おととい伺いましたカラカンダは低品位炭の炭鉱でありまして、七千人からの抑留者が十幾つの收容所におつた。
○小島証人 自分たちの收容所では、最初やはり直属上官とか、あるいはそういつた人にほんとうに短期間だつたですが、若干ほんとうに懇意の者がやつたという程度です。あとはとにかくタシケントの第一收容所においては、そういうことはなかつた。たちまち敬礼というのもなくなつてしまいました。
というのは、カラカンダというのは中間集結地で、西の方の收容所で帰国を除外された著たちが、そちらの方の收容所で清算されて残つた者がカラカンダに来るという結果になつております。