1979-05-31 第87回国会 参議院 外務委員会 第14号
最後に、わが部落解放同盟は、全国水平社の掲げた、先ほども申し上げました「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉、さらには前参議院議員でありました松本治一郎委員長が常に主張いたしておりました「不可侵、不可被侵」という言葉の精神に立脚して、国際人権規約の完全批准と即時具体化を、今後とも私どもも努力いたしますが、一日も早くその実現が達成されることを心から願って私の意見といたします。
最後に、わが部落解放同盟は、全国水平社の掲げた、先ほども申し上げました「人の世に熱あれ、人間に光あれ」という言葉、さらには前参議院議員でありました松本治一郎委員長が常に主張いたしておりました「不可侵、不可被侵」という言葉の精神に立脚して、国際人権規約の完全批准と即時具体化を、今後とも私どもも努力いたしますが、一日も早くその実現が達成されることを心から願って私の意見といたします。
そういう人たちは、えてして、おまえたちが解放運動というのろしを上げて、松本治一郎が先頭になってああいうことをやるから、おれたちは肩身を狭くして歩かなきゃならぬと言う人たちがごく少数いることは事実です。
そうでないと、象徴という名のもとで何か別な、そこにとうとい人間というものがもしかありとするならば、私は本会議の代表質問で申し上げたわけでありますが、亡くなられた先輩の松本治一郎先生がおっしゃったように、「貴族あれば賎族あり」というように、人間の上に人間があるならば人間の下に人間があるというような形で、部落問題もそうでございますが、やはりそういう構造の中で、人間の中でもとうとばれる人間と卑しめられる人間
いま私は、わが党の大先輩、故松本治一郎先生の不朽の言葉「貴族あれば賤族あり」を思い起こしておるのであります。華族制度の廃止を勧告し、福岡連隊の差別事件と闘い、カニの横ばいのような天皇拝謁を拒否して、こうした闘いを通じて追求した人間平等の民主主義の潮流は、いまや動かしがたいものであります。
○楢崎委員 私は、冒頭に、個人的なことですけれども、昭和三十一年に松本治一郎先生のお供をして初めて訪中して以来、小さな力ではありましたが、正常化なりあるいは平和友好条約の締結に努力をしてきた一人であります。きょう、この平和友好条約の賛否採決に賛成の立場で参加し得ることを大変光栄に思い、また感無量であります。 それで、鄧小平副首相も二十二日来られますが、もし招待があれば福田首相は訪中をされますか。
私どもの心の中には、やはりこの解放同盟がいままで長く松本治一郎先生以来闘ってきた成果であると受けとめておりますので、いろいろ問題は言いたいが時間がありませんから、総務長官もそういう腹をちゃんと持っておいていただきたいと思います。これは希望です。 それから第四は、厚生大臣にスモン病です。
私は、部落解放の父、松本治一郎先輩や八木一男先輩の遺志と遺業を引き継ぎ、差別と迫害の中からやっと国会に参った者でございます。以後よろしくお見知りおき願いたいと思うわけであります。 さて、湯山先生の質問に関連いたしまして、二、三、部落問題につきまして御質問を申し上げたいと思います。
同和対策と国民の協力という問題ですが、これは関係者に言わせると、多年の努力、同和運動、解放運動五十年の成果だと言いますが、私ども参議院議員をしておりまして、松本治一郎議員のそばにおって協力してまいりましたから、私どもの努力もあって同対審ができた。そうして同対審答申ができた。その同対審答申を具体化するために特別措置法というものができた。
私はそれを聞きながら、戦前に福岡連隊事件のときに、亡くなられました松本治一郎先生を連隊爆破事件ということで、青年に小遣い銭を渡して、爆弾らしいものをぼろきれに包んだものを持っていかせて、そしてその直後、捜査をしてあったと言って持っていった。
この人は、お父さんが松本治一郎さんたちと一緒に戦前から部落解放運動に参加していた人で、お父さんは部落解放運動の中で不当弾圧を受け、獄死されました。現在部落解放同盟正常化福岡市協の委員長をしている方です。この人が八鹿高校事件が起こった直後、自分の目で確かめたいという気持ちから八鹿町に現地調査に行かれました。
私は、実は、村上君や金子君がいろいろのことばで非常に誹謗をされました部落解放同盟、朝田善之助氏を委員長とするその部落解放同盟の役員をただいまいたしておりますが、昭和三十二年に、実は部落解放運動の先覚者であった先輩の松本治一郎先生の要請によりまして、当時、共産党員であった国民救援会の難波君や、あるいは野間宏君たちと一緒に中央委員になりました。そして私のみが――三木さん、よく聞いてください。
私は、松本治一郎先輩と一緒に中国に何度か参りました。中国にも、こういう問題はあったと思われますけれども、いわば農奴の時代から一ぺんに解放されて、前近代的な農民から近代的——まあ生産力が国際水準に追いつく過程にございますから、多少事情は違うと思います。しかし、これは身分問題ではございません。身分問題ではございませんが、中国の中における少数民族、それから水上生活者は、たいへん似ていると思います。
○小坂国務大臣 今日までの五カ年間で、われわれが考えてみますと、同和問題がもうずっと前から提起されて、松本治一郎先生をはじめ皆さま方の長い間の御活躍があったわけでございます。
○吉田委員 皇室経済の問題に関連をしてお尋ねをいたしますが、総務長官は、あるいは御存じないかもしれませんけれども、私は、福岡県選出の衆議院議員ですが、前に、参議院議員を十三年、副議長もいたしました松本治一郎という先輩がございます。たいへん、その近くでいろいろ指導もいただきましたし、また影響も受けています。
過去五十年間、いばらのかなたに解放の星を見つめる部落解放同盟の旗、あの荊冠旗に象徴されるように、筆舌に尽くしがたい幾多の差別と偏見と弾圧に抗し、死を賭して風雪にたえながらも運動の途上に倒れられた故松本治一郎先生をはじめ、幾多の諸先輩、同志の方々のなき霊に対しても、また今日、部落解放同盟と手を取り合い、完全解放をみずからの命題と受けとめて解放運動に取り組み、真剣な努力を払われている日共以外の各政党の方々
したがいまして、防衛庁が板付基地の松本治一郎先生が原告であるところの判例をお引きになることは、私は法の解釈を間違え、そうして事実においても異なるものをもって論議されるものであって、好ましくないし、私はその見解にくみすることができないのでありますが、防衛庁長官の御見解を承っておきたいと思います。
この松野鶴平先生は松本治一郎先生ともたいへん仲のいい方でありました。私はまだ政界入りする前にいろいろむずかしい問題があるんだが、これを一体どうするか、こう言って松野さんにお話したときに、まあ自分には松本治一郎というたいへん仲のいい友人がいる、それとひとつ、とくと相談してみよう、こう言って党派の違い、これを乗り越えて二人で解決された問題をいま思い起こすのであります。
本問題の解決のため生涯を捧げられた故松本治一郎氏をはじめ数多くの諸先輩、同対審答申までの土台をつくることに努力された岸元内閣総理大臣、堀木元厚生大臣はじめ政府の各位、秋田大助氏、田中織之進氏、湯山勇氏、田原春次氏、五島虎雄氏等国会の先輩同僚の各位、同和対策審議会の各位、さらに同対審答申以後、答申尊重と特別措置法制定を推進された佐藤内閣総理大臣はじめ政府の各位、昭和四十一年の政府、各党協議会、四十三年四月
すなわち、昭和四十年度分につきましては、故議員岩沢忠恭君の遺族に、昭和四十一年度分につきましては、故議員草葉隆圓君及び松本治一郎君の遺族に対する弔慰金でございます。 以上は、いずれも、そのつど議院運営委員会の承認を経て支出いたしたものでありますが、ここに国会予備金に関する法律第三条の規定によりまして、本院の承諾をお願いする次第でございます。(拍手)
本委員会委員、松本治一郎君は、昨年十一月二十二日逝去いたされました。まことに哀悼痛惜にたえません。同君は、本院初代の副議長としてその職責をつとめられ、また、長く本委員会委員としてその職責を果たされたのであります。ここに、委員諸君とともにつつしんで黙祷をささげ、哀悼の意を表しまして御冥福をお祈り申し上げたいと存じます。どうぞ御起立を願います。黙祷を願います。 〔総員起立、黙祷〕
○河野謙三君 本院議員・元副議長松本治一郎君が逝去されました。ここに諸君を代表いたしまして追悼の辞を述べなければなりませんことは、私の深く悲しみとずるところでございます。 顧みれば、松本君は、新憲法下、参議院の発足と同時に、初代の副議長に当選せられ、民主的な参議院制度推進のため、大いに力を尽くされました。
昭和四十二年二月十七日(金曜日) 午前十時三十三分開議 ━━━━━━━━━━━━━ ○議事日程 第二号 昭和四十二年二月十七日 午前十時開議 第一 内閣総理大臣の指名 ━━━━━━━━━━━━━ ○本日の会議に付した案件 一、故議員草葉隆圓君に対し弔詞贈呈の件 一、故議員草葉隆圓君に対する追悼の辞 一、故議員松本治一郎君に対し弔詞贈呈の件 一、故議員松本治一郎君
○議長(重宗雄三君) 議員松本治一郎君は、昨年十一月二十二日逝去せられました。まことに痛惜哀悼の至尊にたえません。 同君に対しましては、すでに弔詞を贈呈いたしました。 ここに、その弔詞を朗読いたします。
十月二十九日、加瀬完君、鶴園哲夫君及び小柳勇君が辞任せられ、その補欠として松本治一郎君、野々山一三君及び中村英男君が、十一月七日、北村暢君が辞任せられ、その補欠として亀田得治君が、また、同月八日、亀田得治君が辞任せられ、その補欠として北村暢君が、同月十日、渋谷邦彦君が辞任せられ、その補欠として鬼木勝利君が、十二月十三日、多田省吾君が辞任せられ、その補欠として柏原ヤス君が、本日、船田譲君、館哲二君、石原幹市郎君