2000-10-12 第150回国会 参議院 選挙制度に関する特別委員会 第5号
市川房枝さんであるとかあるいは青島幸男さんですとか、選挙になると外国へ行かれてしまうという、考えようによっては大変私どもはばかにされているようなことであるわけでございますけれども。
市川房枝さんであるとかあるいは青島幸男さんですとか、選挙になると外国へ行かれてしまうという、考えようによっては大変私どもはばかにされているようなことであるわけでございますけれども。
さきに行われました当調査会の公聴会におきまして、市川房枝記念会の山口みつ子公述人は、女性が議会に出にくい要因として、組織的な要因、経済的な要因、制度的な要因、そして社会的文化的な要因、この四つにわたってお述べになりました。 そのうち、まず制度的要因について述べたいと思いますが、その一番大きな問題点は選挙制度の問題だと思います。
先ほどゴードン参考人の話に登場いたしました、戦前からの日本では最も著名な婦人運動家である市川房枝さんの始められた二院クラブに属している佐藤でございます。どうか御記憶くださいませ。 そこで、プール参考人にお尋ねいたします。 憲法学説上、憲法改正には限界があると。
それは後で、私が市川房枝先生の通訳だったときに、それは一九五二年だった、そのときにいろんなそういうことを教えてくれました、先生は。 人権について、私たち、それを書いたときに、もちろん理想的な憲法をつくりたいと思いまして、一番いいものを、人権、何でも入れたかったと思うんです。そして、私は、平和についてのクローズと全然何も関係がなかったんです、私はそれを書かなかったので。
私は、市川房枝記念会というところで女性の政治教育、女性問題調査・出版、それから国際交流というこの三つの事業を柱として日夜取り組んでおります。特に、女性参政権の行使の状況につきましては、調査をし、かつ雑誌を通してそれを公表しているところでございます。このような場所をお与えくださいまして、大変ありがたく思っております。
私自身は、今、仕事として市川房枝政治参画センターというのをもう七年やっておりますが、政党は御自分の党に所属する人たちを教育する責任がある。そうでない人たちは、情報も足りませんし、政策研究をする場所もない。
まず、公述人、財団法人21世紀職業財団理事長太田芳枝君、新日本婦人の会副会長笠井貴美代君及び財団法人市川房枝記念会常務理事山口みつ子君にお願いいたします。 この際、公述人の方々に一言ごあいさつを申し上げます。 本日は、御多忙中のところ本調査会公聴会に御出席いただきましてまことにありがとうございます。
それから、過日、市川房枝記念会の方で出されたそれぞれのアンケートを読ませていただきました。国会議員の先生方はそれぞれ政党の御支援をいただいて立候補し当選をされていますが、市町村地方議会においては、市民運動をされた方、あるいは生協やPTAあるいは消費者団体等々の中で活動された方が地方議会に多く進出をしておられます。
それで、以前よく市川房枝記念会で各政党の女性議員の方をお招きして、党内の活動において女性であるがゆえのハンディキャップというものをお感じになりませんかなどというようなことが質問として出たことがあるんですけれども、ある特定の党を除いて全部おっしゃっていました。いかに日本の政党が民主的でないかということをおっしゃっていたということは私はじかに聞いておりますので、そのことは申し上げられると思います。
私はまだ子供でございまして、母親がいそいそと選挙に行きながら、二名でしたか、とにかく連記制だったので、母は市川房枝先生の会に入っていたようなそんな女性じゃない、ごく普通の市井の主婦でございましたけれども、着物を着がえながら一言こう言いました。お母様は女だから一人は女に入れるわ。何でもない普通の主婦からそういう言葉が出てきたのでございますね。
それから、例えば市川房枝記念会では政治スクールをずっとやっていらっしゃいますし、それから例えば私どもでは能力というとき、自信、知識、情報。
ついこの間、婦人展望という、市川房枝記念会から出ております五月号に座談会がありますけれども、ここに、基本法検討小委員会の委員長でありました古橋源六郎さんが、平等平等と言うから男性の理解が得られず、達成されないのではないかと、こういうふうに述べておられるんです。
我が国においても、一九七五年、今は亡き市川房枝、田中寿美子両議員らの尽力により、「国際婦人年にあたり、婦人の社会的地位の向上をはかる決議」が衆参両院において全会一致で行われたのであります。 さらに、国連は、一九七九年、女性差別撤廃条約を採択し、女性に対するあらゆる形態の差別を撤廃するために必要な措置をとることを条約として表明いたしました。
まず、一九五六年にこの参議院法務委員会で、当時の高田なほ子委員長自身が加わって、羽仁五郎さん、市川房枝さんというような方々が提案者になって死刑制度廃止の法案を議員立法で出していらしゃいます。そして、この委員会で極めて真剣な議論が行われ、二日間にわたって公聴会も行われたということを聞いております。
これは多くの識者も指摘していますし、特にこれが自治法の改正の大きな問題になりました一九六三年、昭和三十八年の議論の際には、市川房枝氏もこれは提起しています。そのときの議論はなかなかおもしろいものでして、議事録を見ていますと、こんなふうに言っています。 結局監査委員も市の当局も同じ穴のムジナだ、こういう批判がある。そうではなくて公選制ということはできないだろうか。
そうした中では、具体的には、例えば明治初期、岩倉使節団に津田梅子らが同行してアメリカに渡ったということ、あるいは平塚らいてうさんらが青鞜社を結成して女性解放運動を行ったこと、あるいは大正期におきまして、平塚さんや市川房枝さんらが新婦人協会を組織して婦人参政権運動を進めたこと、あるいは大正期以降には女子の高等教育が拡充していったこと、あるいは戦後は婦人参政権が実現いたしまして、戦後最初の選挙では多数の
青鞜社の平塚らいてうとか、あるいは普通選挙権を獲得するための市川房枝さんの活躍とか、そういう女性なんかがそれぞれ教科書では紹介されておるというふうなことでございますが、きょうも質問ございました慰安婦の問題なんというまことに女性の尊厳を傷つけるようなものがまた教科書に載る。私個人として大変残念に思う、そういう一人でございます。
この間の経過を振り返りますと、一番の端緒は、もう二十年前、市川房枝先生が選挙の結果に対して、一票の格差是正を求めて運動を起こされたわけであります。
それはともかくとして、実はこの参議院法務委員会というのは大変この問題については一つの歴史を持っているようでありまして、私も新聞記者でそのことを承知しているんですが、昭和三十一年、一九五六年にこの参議院法務委員会で、当時の高田なほ子委員長自身が加わって、羽仁五郎あるいは市川房枝さんというような先輩の皆さんが提案者になって議員立法で死刑制度廃止の法案を提出されている。
○萱野茂君 一九七一年に、当時の外務大臣愛知揆一さんが市川房枝さんの質問に答弁した中で、しばらく時間をおかしいただきたいというような答弁をしているわけであります。これは一九七一年、それから二十二年もたっています。時間とこれの関係というのは、しばらくの時間というのが二十三年だったら、今お答えありましたようにこの次の国会ということの返事でしたが、その辺は二十三年の時間ではありませんでしょうね。
このことにつきましての云々は、お答えは今、求めませんけれども、自治省にお伺いしたいんですけれども、かって私も、亡くなりました市川房枝参議院議員と一緒に政治資金の調査というのを昭和三十五年から始めております。そのころはコピーそのものも行き渡っていなかったという、役所にもコピーがなかったかもしれません。
女性解放運動も、単に明治の末ごろから活発となり、平塚雷鳥とか青鞜、青鞜というのはプルーストッキング、それが挙げられておりまして、市川房枝、新婦人協会を組織しというふうな本当に半ページあるかないか、名前が挙がっているだけというふうな状況でございます。
○谷畑孝君 いや、外務大臣、これ、検討と言ってますけれども、一九七〇年当時に、市川房枝氏、死去された市川さんが質問しまして、当時の外務大臣が、条約には基本的には賛成、国内法の整備との関係でしばらく待ってほしいと。それからもう二十五年たっておるんです。しばらくというのは二十五年なんですか。もう一度、回答をお願いしたいと思います。
二院クラブは、参議院は無所属が本来のあるべき姿であって、政党的に結束された方々が衆議院と同じような議席数を持って、同じような扱いをなさるのでは参議院の意味がなくなるではないかという緑風会以来の伝統に基づきまして、市川房枝さんがつくられましたクラブでございます。
発行元は市川房枝記念会。クリーンな政治、お金のかからない政治を目指して生涯をそこにかげられました市川房枝さんを記念いたしまして、女性たちが今も脈々と発行しておる「月刊婦人展望」でございます。 この中の分析にこの二・七%に関係する部分の記述がございます。