あるいは、これは私が前、外務政務次官のときに、大変な台風が、ハリケーンが来まして、そこへ医療援助に行ったんですね。ところが、すばらしい自衛隊の医療チームを出したんでありますけれども、向こうはもうとにかくいてくれ、一日でも長くいてくれと、もう大変な要請が来まして、現にもう、変な言い方だと大はやりなんですね、すばらしい医療サービスができるもんですから、テントの中なんですけれども。
町村信孝
○国務大臣(町村信孝君) 私は、六、七年前に外務政務次官を一回務めたことがございますが、その折にイスラエルとパレスチナ両方に伺いました。そのとき初めてアラファト議長ともお目に掛かりまして、三時間余にわたって食事をしながら随分いろんな話をして、最後は私が、ちょっとびろうな話ですが、トイレに行きたいと言ったら自分で案内をしてくれましてね、これはおれのトイレだから使えとまで言ってくださいました。
町村信孝
例えば、これはメディアに載ったものですけれども、外務政務次官経験者の方が、二十億ぐらいかかったのではないか、こんなことも言っていらっしゃいます。また、与党の議員の中で、これまでかかった税金は大変なものだ、経費はしっかり請求すべきである、これを政府の立場にある方が発言をされている。
小林千代美
また、このラルイサの土地でございますけれども、ラルイサの土地につきましては、平成九年十月、ドミニカの日本人移住者の方々が訪日した際、外務政務次官に対して、募集要項に記載された土地の供与を実現してほしいと、こういう要望が改めて出ました。これを受けまして、同年十一月十八日、現地大使館の大使がドミニカ農地庁のゲレロ長官との会談で移住者の方々の御要望をお伝えしました。
鹿取克章
たまたま、私の古くからの先輩、友人でもあります松浦ユネスコ事務局長も大変頑張っておられますし、私は、当時外務政務次官で選対本部長を務めて、一生懸命全世界に票を集める努力をした記憶がございます。もっとも、本当の選対本部長は当時の小渕総理であったということも記憶に新しいところであります。
町村信孝
私、外務政務次官のときに安保でいろいろ自由に答弁しようと思ったけれども、できませんでした。やっぱり大臣が活躍することは、小泉内閣ではようやく普通になってきた適材適所、能力によって閣僚を選ぶというそのトレンドを進めることになると思いますので、是非頑張っていただきたいと思います。はい。
山本一太
あのぎりぎりのときに、八五年のケニアの会議でしたでしょうか、当時、外務政務次官でおいででいらっしゃいました大臣が行かれまして、それをプッシュするためにそこの演壇でスピーチされたことは、たしか、山が動く日来るでしょうか、与謝野晶子さんの詩を引かれて言っている。
川橋幸子
外務政務次官だったころ、今から四年前に、東京であるイギリス人の青年に会いました。名前をマーク・レナードといいます。
山本一太
外務政務次官だったときにCOPにも何回か出させていただきまして、そういういろんなせめぎ合いがあることも存じ上げております。
昨日、ヨハネスブルグ宣言と実施計画をぱらぱらと見たら、大臣がおっしゃったように京都議定書のことが一行入っておりまして、タイムリーに議論を始めようと。これを恐らく入れたのは、大臣おっしゃったようにかなり日本側の大きなヒットだったのかなというふうに思っております。
山本一太
○青木参考人 九九年の八月までの段階で、私の記憶する限りを申しますと、まず、武見敬三当時の外務政務次官が見えたときに、モイ大統領からこの話がございました。それから、九九年の一月に橋本元総理大臣が見えたときも、モイ大統領からこの話が出たと記憶しております。
青木盛久
私は外務政務次官をやったときに、オルブライト長官とかシン外務大臣とか唐家セン外務大臣とか、全部直接英語でやらしていただきましたが、そのとき分かったことは、私が交渉できるレベルというのは議論できる最低レベルの英語でございまして、私程度の英語力の方ではとても大使にはなれない。
山本一太
鈴木議員は九一年に外務政務次官として、失礼いたしました、九九年にユネスコの事務局長選挙に関する支持要請のため、タンザニアを訪問いたしましたが、その際に選挙支援について前向きな反応が得られたことを評価されるとともに、一般的に日本、タンザニアの二国間関係の推進に関心を有していたというふうに承知しております。
小田野展丈
同時に、外務政務次官には武見敬三さんが就任をされておったと思います。武見外務政務次官が九八年の九月にケニアを訪問しているんですが、このときには当然、ソンドゥ・ミリウの案件について、ケニアの先方と会うときに話題になっているというか、手持ちの資料などにきちっとこれは記載をされてやりとりがあったんでしょうか。九八年です。
保坂展人
私は、この四ページという枠を私に与えてくれた、しかも外務省改革について是非発信してほしいと言ってくれたこの文春の編集長には大変感謝はしておりますが、しかしながら、ちょっとタイトルが極めてちょっとセンセーショナルなものになってしまいまして、山本元外務政務次官、告発提言なんてなってしまったわけなんですけれども、内容は、読んでいただいたかどうかわかりませんが、かなりまじめに書いたつもりですし、細かいところまでは
山本一太
一つ、大変手前みそになりますが、私、外務政務次官になる前にずっとODAの関係に携わっておりました。いろんな委員会でもそうですし、政治家になる前もJICAや国連開発計画の仕事でODAに携わったわけなんですが、政務次官になる前に、あるとき外務官僚の方に来ていただいて一つの提言をしました。
山本一太
確かに外務省であるかないかといえば、外務省の外務大臣でもなきゃ、外務政務次官でもありませんから、そういう意味ではそうかもしれないけれども、この間絶大な影響力を発揮したことは間違いないんでしょう。だから、外務省の影響力がちょっと強過ぎるということを総理もおっしゃったわけですね。
峰崎直樹
当時外務政務次官だった鈴木代議士による格別の指導、尽力のおかげですと、こういうふうにあいさつをしているんです。鈴木議員の関与は明確じゃありませんか。どうですか。
紙智子
○紙智子君 立地選定基準を検討しているその真っ最中の九一年十一月四日、鈴木宗男当時外務政務次官が記者会見をやっています。研修センターの誘致に宮城県など六道県が名のりを上げている中で、札幌と帯広に設置することを明らかにしています。これは、北海道で札幌市を内定というふうに伝えられていたものを鈴木氏が外務省やJICAに対して帯広の誘致を強く働き掛け、巻き返しを図った結果だと。
紙智子
しかも、あなたが外務政務次官や防衛政務次官や官房副長官をやっていなければまだしもともかく、そういう要職にあったということでありますから、極めて鈍感ではないか。このことについてどのように理解されているのか。
上田清司
外務政務次官でしたね。その後、一九九二年と九四年にも訪問していますね。モイ大統領とお会いになっています。
さて、この、あなたが初めてソンドゥ・ミリウのことを知った一九九九年以前のあなたの訪問のときに、ソンドゥ・ミリウダムについては一度も会談で話は出てないんですか、いかがですか。
辻元清美
外務政務次官のときの言及もありましたけれども、このときは、TICADの関係、アフリカ開発会議を日本で開くというもので、その招待状を持って参加をお願いに行ったというのは、私はちゃんと覚えております。
鈴木宗男
調査の途中でございますので、あらかじめ取りあえずということをお断りしておきたいと思いますが、九一年七月の外務政務次官としてのケニア訪問でございますが、当時外務政務次官たる鈴木議員は、モイ大統領と会談をしておられ、経済協力についても話題になっておりますが、当該ソンドゥ・ミリウ水力発電計画についてやり取りが行われたとの記述はございませんでした。
西田恒夫
そういう方が、外務政務次官もやられた、そして国務大臣もやられた、あるいは議運の委員長もやられた、そういう方の私設秘書で、議連の事務局もやっておられる。官房の副長官もやっておられる。これは、アメリカか何かだったら、国家反逆罪か何かで逮捕されちゃうんじゃないですか、本当に。感想を言ってください。
上田清司
もう一つ、短く申し上げますが、トルコのことをおっしゃっていたんですけれども、私は数年前に外務政務次官だったときにトルコに参りまして、エジェビット首相と三十分ぐらい会談をしたことがありました。
山本一太
先日のダボス会議、竹中さんも行かれましたけれども、あそこでも、アメリカの国務省のスタッフとイランの外務政務次官が物すごい論争になっていて、これは国際社会みんなニュースとして回っているはずなんです。ですから、日本がどういう発言をブッシュ大統領とするのかというのは、日本がイスラム社会とどうつき合うのか、ヨーロッパとどうつき合うのか、全部関係してくるんですよ。
辻元清美